穢多
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平八郎が平素懐柔した渡辺村の穢多は、些細の手違から暴挙に加
らず、又般若寺村及 生村の穢多は途中から逃帰つた、同じく人
を殺すのでも穢多の殺方は残酷で、横死者を検視すれば加害者が
常人か穢多か、直に見当がつくといふ位なれば、大塩一党の乱暴
に穢多が加らなんだことは、町奉行所側から見れば大なる幸であ
つた、坂本鉉之助が平八郎から有事の日に穢多を使はうといふ説
を聞き、中々大器量ある人、鉉之助等の及ぶ所にあらずと感服し
たは、文政四年平八郎廿九歳の時で、其話は次の如くである、或
日両人出会の折、平八郎の言ふには、貴兄は御城附の与力にて武
役一方、僕は町与力にて獄吏なれども、何事ぞと申す節は貴兄方
は勿論僕等迚、御城を警衛し、西三十三ケ国を押へるより外は之
無く、貴兄の御頭は万石以上の諸侯にて相応の御家臣もあるべき
が、僕等が頭は三百石五百石の小身にて、譜代の家来とてはなく、
勤役中だけ公務に慣れたる者を雇入れられるゝ始末故、大事に莅
み当にはならず、左様の場合に急度御城の一方をも堅固に警固致
す御工夫は如何とあつた、鉉之助は差当何の工夫も無之、今日弓
を射、鉄砲を打ち、其外槍剣等の武技を稽古するも、畢竟之が為
と答へた所、夫は申迄もなく武夫の常にて、我々共より遥かに小
禄な十石三人扶持の同心中にも、相応武技に出精せり、併し是等
は唯一己の嗜にて、僅かに武夫一人前の事、僕のお尋致すは、一
己の力を以て一方を守禦する工夫に候と再び問はれ、愚昧にて工
夫も覚悟も無之、貴兄に御工夫あらば承りたしと反問した、其時
平八郎は側の本箱より渡辺村の掟書を出し、我々共は運拙くして
同じ人間に生れながら、畜生同様人間交も出来ぬ身なれ共、公儀
御法度を能く守り、律義に職業に出精せば、時を得て人間交の出
来ることもあるべきにつき、能く此掟書を守るべしといふ最後の
筒條を示し、此処に眼を留められよ、彼等が第一に残念に存ずる
は人間交の出来ぬ事にて、智慧坊主親鸞は其辺を能く呑込み、此
方の宗門にては穢多にても少しの障なし、今世こそ穢多なれ、後
世には極楽浄土の仏にして遣すといふを、彼等は殊に難有がり、
本願寺に金子を寄進するに穢多ほど多き者は無し、有とも無とも
知れぬ後世に、人間並にしてやらうとさへあるに右の如くなれば、
唯今直に人間に致して遣すといはゞ、此上なく難有がり、火にも
水にも命を捨てゝ働くべし、左れば何事ぞある時、五百や千の必
死の人数は忽ち得らるべく、僕は夫を指揮して急度一方を警固す
る心得なり、当今出水にてこの堤が危く、之を切らしては数万人
の人命に関はる故、是非防がねばならぬといふ時は穢多を遣ひ、
また市中の火災にても爰は是非防がねばならぬといふ時に穢多を
遣ふ、其折穢多共必死となりて防ぐ故、三人五人死者怪我人の出
来ぬことはなし、されば彼等を唯今真人間に致し遣すと申さば、
又十倍の力を出し、急度御用に立つべく、僕平常其心得にて随分
彼等に不便を加へ、又悪事を為せば厳重に取計らふ故、穢多共至
つて僕を畏れ且つ難有がり居り候と語り、鉉之助を閉口せしめた
とある、是程に目を注けた穢多の事であるにより、平八郎は七年
冬小頭を呼寄せ、米価高値にて其方共嘸難渋なるべし、此金子を
渡すにつき、村内の難渋人に相応に分配せよとて、金子五十両を
与へ、さて其方には之を遣はすとて拵付の長脇差を出し、小頭が
此御恩何を以てに報い奉るべきやと言ふを打消し、別に報恩の望
は無いが、左程までに存ずるなら、此辺に火災起りしと聞かば、
穢多共を引連れ、役所へ行かぬ先に此方へ参り、働き呉れよと約
束して置いた、然るに二月十八日には村内に葬式があつたので、
小頭は其家に何か手伝に行き、振舞酒に酔倒れ、翌朝天満出火の
節、何程傍から揺起しても醒めず、詮方なく外の小頭が穢多共を
引連れて町奉行所へ駈付けた、程経て彼は起上り、天満の火事と
聞いて大に驚き、大塩様への御約束ありと人足を催促すれども、
既に奉行所へ行きたる者多く、漸く三十人計を引連れ、大塩一党
が難波橋を南へ渡り掛る時に駈付けた処、己恩知らず奴、何故か
く遅参したるぞ、と平八郎から大声に罵られ、這々の体にて町奉
行所へ逃来つたと、跡部山城守の話を鉉之助が書いてゐる。
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旧幕時代には士農工商の階級制度が行はれ、文字の順序の通り、
士を第一に貴び、商を最も低しとしたが、この以外において一般
人から甚だしく蔑視せられ除外せられた一団が各地に存在した。
彼等は迫害せられるに従つて反撥心を強くし、部内の団結も頗る
強固であつた。文政四年某日坂本鉉之助は平八郎の口から彼等に
対する意見を聞き、名案卓説我等の及ぶ所にあらずと感服して下
の記事を残してゐる。平八郎曰く、貴兄は御城附の与力にて武役
一方、僕は町与力にて獄吏なれど、何事ぞと申す節は、貴兄方は
勿論僕等迚、御城を警衛し、西三十三ケ国を押へるより外は無之、
貴兄の御頭は万石以上の諸侯とて相応の御家臣もあるべきが、僕
等の頭は三百石五百石の小身とて、譜代の家来といふ者なく、勤
役中だけ公務に慣れた者を雇入れられる仕儀故、大事に莅み当に
はならず。左様の場合に急度御城の一方をも堅固に警固致す御工
夫は如何とあつた。鉉之助は差当何の工夫も無之、今日弓を射、
鉄砲を打ち、槍剣等の武技を稽古するも、畢竟之が為と答へた所、
夫は申迄もなく武夫の常にて、我々共より遥かに小禄な十石三人
扶持の同心中にも、相応武技に出精する者あり。併し是等は唯一
己の嗜にて、僅かに武夫一人前の事。僕のお尋致すは、一己の力
を以て一方を守禦する工夫に候と再び問はれ、愚昧にて工夫も覚
悟も候はず、貴兄に御工夫あらば承りたしと鉉之助は反問した。
その時平八郎は側の本箱より渡辺村の掟書を出し、我々共は運拙
くして同じ人間に生れながら、人間交も出来ぬ身なれ共、公儀御
法度を能く守り、律義に職業に出精せば、時を得て人間上の出来
ることもあるべきにつき、能くこの掟書を守るべしといふ最後の
筒條を示し、此処に眼を留められよ。彼等が第一に残念に存ずる
は人間交の出来ぬ事にて、智慧坊主親鸞はその辺を能く呑込み、
我が宗門にては賎者にても少しの障なし。現世はともあれ、後世
には極楽浄土の仏にして遣はすぞといへるを彼等は殊に難有がり、
彼等ほど多額の金子を本願寺に寄進する者無し。有とも無とも知
れぬ後世に、人間並にしてやらうとさへあるに、右の如くなれば、
唯今直ちに人間に致し遣はすといはば、この上なく難有がり、
火にも水にも命を捨てて働くべし。左れば何事ぞある時、五百や
千の必死の人数は忽ち得らるべく、僕は夫を指揮して急度一方を
警固する心得なり。当今出水にてこの堤が危く、之を切らしては
数万人の人命に関はる故、是非防がねばならぬといふ時、また市
中の火災にても此処は是非防がねばならぬといふ時に彼等を遣へ
ば、彼等必死となりて防ぎ働き、若干の死傷者を生ずるも悔ゆる
ことなし。されば彼等を只今真人間に致し遣はすと申さば、更に
十倍の力を出し、急度御用に立つべし。僕平常その心得にて随分
彼等に不便を加へ、また悪事を為せば厳重に処分する故、彼等至
つて僕を畏れ、且つ難有がり居り候と語つた。云々。
天保七年冬平八郎は渡辺村小頭を呼寄せ、米価高値にてその方
共嘸難渋なるべし。この金子を与ふるにつき、村内の難渋人に分
配せよとて、金子五十両を与へ、さてその方には之を遣はすとて
拵付の長脇差を出し、小頭が何を以て御恩に報い奉るべきやと言
ふや、左程までに存ずるなら、この辺に火災起りしと聞かば、配
下を引連れ、役所へ行かぬ先に当方へ参り働き呉れよと約束して
置いた。然るに二月十八日には村内に葬式があつたので、小頭は
その家に行き、振舞酒に酔倒れ、翌朝天満出火の節何程傍から揺
起しても醒めず、詮方なく外の小頭が彼等を引連れて町奉行所へ
駈付けた。程経て彼は起上り、天満の火事と聞いて大いに驚き、
大塩様への御約束ありと人足を催促すれども、既に奉行所へ行き
たる者多く、漸く三十人計を引連れ、大塩一党が難波橋を南へ渡
り掛る頃に駈付けた処、平八郎から己恩知らず奴、何故かく遅参
したるぞと大声に罵られ、這々の体にて町奉行所へ逃来つたとい
ふことが、跡部山城守の直話として鉉之助の書留にある。
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