Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.8.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その117

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  三 反忠 (2)
 改 訂 版


平八郎捕縛
の内儀

町奉行所では毎月二日・五日・七日・十二日・十八日・廿一日・ 廿五日・廿七日を御用日といひ、其日には月番町奉行が公事訴訟 を受付け、非番町奉行が之に立会ふ慣例である、助次郎の密訴は 十七日の夜で、翌十八日の御用日には、伊賀守は早朝から月番山 城守の許へ遣つて来た、其処で両名相談の上、虚実は分らぬにし てもが、召捕の手筈をつけやう、然し役所内には一味の者も居る、 万一先方に洩れては如何なる変事出来するかも計り難く、退散後 捕方を人撰しやうといふに一決し、平常の通り事務を取扱ひ、伊 賀守は退座の上同組与力吉田勝右衛門に、又山城守は同組与力荻 野勘右衛門・同人忰荻野四郎助・並に磯矢頼母に其旨を命じた、 四郎助頼母は平八郎の門人であるから、山城守は余程見抜いた所 があつて捕縛方を命じたものと見える、之を聞いた三人はハツと 計に打驚き、暫時勘考の体なりしが、我等近来御用多にて平八郎 方へ参らねども、同人平素教訓の趣意を以て推せば、助次郎密訴 の次第は思も寄らず、一体平八郎は乱心同然の性質、殊に近来は 我慢に乗じ、懇意の者へは意外の大言を申聞ける風である、助次 郎は自分の正直の心から、右の大言を事実と承知して卒忽に密訴 したにはあらざるか、捕方を差向けもしや事実に無之ば、夫を口 実として如何なる不法の挙に及ばんも知るべからず、十九日の御 巡見だに延引あらば、異変の起る訳もあるまじく、勿論拙者共に 於ては早々平八郎の手許を探り、聊にても怪しき様子あらば、身 命を抛つて尋常の取計を致しませうと、口を揃へて言ふので、山 城守も其意に任せ、伊賀守へは中止の次第を申送つた、さうかう する中に十九日となり、暁七ッ時前に吉見九郎右衛門の忰英太郎 河合郷左衛門の忰八十次郎両名が、九郎右衛門自筆の訴状と版行 摺の檄文とを携へて、支配違なる伊賀守の役宅へ駈込んで来た。

 町奉行所では毎月二日・五日・七日・十二日・十八日・廿一日・ 廿五日・廿七日を御用日といひ、御用日には月番町奉行が公事訴 訟を受付け、非番町奉行が之に立会ふ慣例である。助次郎の密訴 は十七日の夜で、翌十八日の御用日には、伊賀守は早朝から月番 山城守の許へ遣つて来た。山城守は昨夜の次第を物語り、両名密 議の上、虚実は分らぬが、平八郎召捕の手筈をつけよう、然し役 所内には一味の者も居ることとて、万一先方に洩れては如何なる 変事出来するやも計り難く、退散後捕方を人選しようといふに一 決し、平常の通り事務を取扱ひ、伊賀守は退座の上西組与力吉田 勝右衛門に、また山城守は東組与力荻野勘右衛門・同人忰四郎助・ 並びに磯矢頼母に召捕方を命じた。四郎助頼母は平八郎の門人で あるから、山城守は余程見抜いた所があつたものと見える。之を 聞いた三人はハツと計に打驚き、暫時勘考の後、我等近来御用多 にて平八郎方へ参らねども、同人平素教訓の趣意を以て推せば、 助次郎密訴の次第は思ひも寄らず、一体平八郎は乱心同然の性質、 殊に近来は我慢増長し、懇意の者へは意外の大言を申聞ける風で ある。助次郎は自分の正直の心から、右の大言を事実と承知して 粗忽に密訴したにはあらざるか。捕方を差向け、もしや事実にあ らずとせば、夫を口実として如何なる不法の挙に及ばんも知るべ からず、十九日の御巡見を延引あらば、異変の起る訳もあるまじ く、勿論拙者共に於いては早々平八郎の手許を探り、聊にても怪 しき様子あらば、身命を抛つて尋常の取計を致しませうと、口を 揃へて言ふので、山城守もその意に任せ、伊賀守へは召捕方中止 の次第を申送つた。さうかうする中に十九日となり、暁七ッ時前 に東組同心吉見九郎右衛門の忰英太郎同河合郷左衛門の忰八十次 郎両名が、九郎右衛門自筆の訴状と版行摺の檄文とを携へて、支 配ちがいの伊賀守の役宅へ駈込んで来た。



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