平八郎捕縛
の内儀
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町奉行所では毎月二日・五日・七日・十二日・十八日・廿一日・
廿五日・廿七日を御用日といひ、其日には月番町奉行が公事訴訟
を受付け、非番町奉行が之に立会ふ慣例である、助次郎の密訴は
十七日の夜で、翌十八日の御用日には、伊賀守は早朝から月番山
城守の許へ遣つて来た、其処で両名相談の上、虚実は分らぬにし
てもが、召捕の手筈をつけやう、然し役所内には一味の者も居る、
万一先方に洩れては如何なる変事出来するかも計り難く、退散後
捕方を人撰しやうといふに一決し、平常の通り事務を取扱ひ、伊
賀守は退座の上同組与力吉田勝右衛門に、又山城守は同組与力荻
野勘右衛門・同人忰荻野四郎助・並に磯矢頼母に其旨を命じた、
四郎助頼母は平八郎の門人であるから、山城守は余程見抜いた所
があつて捕縛方を命じたものと見える、之を聞いた三人はハツと
計に打驚き、暫時勘考の体なりしが、我等近来御用多にて平八郎
方へ参らねども、同人平素教訓の趣意を以て推せば、助次郎密訴
の次第は思も寄らず、一体平八郎は乱心同然の性質、殊に近来は
我慢に乗じ、懇意の者へは意外の大言を申聞ける風である、助次
郎は自分の正直の心から、右の大言を事実と承知して卒忽に密訴
したにはあらざるか、捕方を差向けもしや事実に無之ば、夫を口
実として如何なる不法の挙に及ばんも知るべからず、十九日の御
巡見だに延引あらば、異変の起る訳もあるまじく、勿論拙者共に
於ては早々平八郎の手許を探り、聊にても怪しき様子あらば、身
命を抛つて尋常の取計を致しませうと、口を揃へて言ふので、山
城守も其意に任せ、伊賀守へは中止の次第を申送つた、さうかう
する中に十九日となり、暁七ッ時前に吉見九郎右衛門の忰英太郎
河合郷左衛門の忰八十次郎両名が、九郎右衛門自筆の訴状と版行
摺の檄文とを携へて、支配違なる伊賀守の役宅へ駈込んで来た。
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町奉行所では毎月二日・五日・七日・十二日・十八日・廿一日・
廿五日・廿七日を御用日といひ、御用日には月番町奉行が公事訴
訟を受付け、非番町奉行が之に立会ふ慣例である。助次郎の密訴
は十七日の夜で、翌十八日の御用日には、伊賀守は早朝から月番
山城守の許へ遣つて来た。山城守は昨夜の次第を物語り、両名密
議の上、虚実は分らぬが、平八郎召捕の手筈をつけよう、然し役
所内には一味の者も居ることとて、万一先方に洩れては如何なる
変事出来するやも計り難く、退散後捕方を人選しようといふに一
決し、平常の通り事務を取扱ひ、伊賀守は退座の上西組与力吉田
勝右衛門に、また山城守は東組与力荻野勘右衛門・同人忰四郎助・
並びに磯矢頼母に召捕方を命じた。四郎助頼母は平八郎の門人で
あるから、山城守は余程見抜いた所があつたものと見える。之を
聞いた三人はハツと計に打驚き、暫時勘考の後、我等近来御用多
にて平八郎方へ参らねども、同人平素教訓の趣意を以て推せば、
助次郎密訴の次第は思ひも寄らず、一体平八郎は乱心同然の性質、
殊に近来は我慢増長し、懇意の者へは意外の大言を申聞ける風で
ある。助次郎は自分の正直の心から、右の大言を事実と承知して
粗忽に密訴したにはあらざるか。捕方を差向け、もしや事実にあ
らずとせば、夫を口実として如何なる不法の挙に及ばんも知るべ
からず、十九日の御巡見を延引あらば、異変の起る訳もあるまじ
く、勿論拙者共に於いては早々平八郎の手許を探り、聊にても怪
しき様子あらば、身命を抛つて尋常の取計を致しませうと、口を
揃へて言ふので、山城守もその意に任せ、伊賀守へは召捕方中止
の次第を申送つた。さうかうする中に十九日となり、暁七ッ時前
に東組同心吉見九郎右衛門の忰英太郎同河合郷左衛門の忰八十次
郎両名が、九郎右衛門自筆の訴状と版行摺の檄文とを携へて、支
配ちがいの伊賀守の役宅へ駈込んで来た。
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