Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.8.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その119

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  三 反忠 (4)
 改 訂 版

英太郎
八十次郎

英太郎は十六歳八十次郎は十八歳の少年で、旧冬は火薬の調合を 手伝ひ、檄文の印刷に従事し、内々怪しくは思つたものゝ、親共 が同志のやうに見えるので黙つて居つた、其中郷左衛門の出奔以 来益々平八郎が怖しく、さりとて退塾は勿論宿元へ帰ることも出 来ず、又宿元からの使にも容易に会はれず、用事で外出したを幸 に、英太郎は我家へ立寄つた所、父から前の如く命ぜられたので ある、帰塾後彼は八十次郎と相談し、平八郎の手元から檄文を一 枚取隠し、尚も様子を伺つて居ると、十六日頃から一味の面々が 毎日参会する。十八日の晩兵庫西出町の長太夫が来て平八郎と表 の間で面会した時、一同は奥座敷で酒宴をしてゐたが呼込うとも せず、、長太夫の帰つた後で平八郎父子も奥座敷へ入り、明日は 町奉行を討取らう、所々へ放火しやうとの話が聞えるので、もう 猶予する場合で無いと考ヘ、早速立退かうとしたが、万一認めら れては一大事と、両名にて先日失踪した郷左衛門を捜索に行く旨 の遺書を残し、竊取つたる檄文を懐中にして九郎右衛門方へ駈付 けた、其処で九郎右衛門は右檄文に前以て認置いたる訴状を添へ、 時を移さず両名をして山城守へ出訴せしめやうとしたが、山城守 の手許には一味の瀬田済之助小泉淵次郎が当番をして居る筈故、 迂闊に出訴しては折角の本意を達しかねると心付き、支配違なる 伊賀守の許へ駈付けしめた、両名は家老中泉撰司の長屋に於て委 細を申述べたる後改めて組同心へお預けとなり、又暴動の初に出 入の男の肩に縋つて曾根崎村へ立退いた九郎右衛門は、翌日伊賀 守役所へ呼出され、一応取調の上江戸許定所へ引渡となつた。

 英太郎は十六歳、八十次郎は十八歳の少年で、旧冬火薬の調合 を手伝ひ、檄文の印刷に従事し、内々奇怪に思つたものの、親共 が同志のやうに見えるので黙つて居つたが、郷左衛門の出奔以来 益々平八郎が怖しく、さりとて退塾は勿論帰宅も出来ず、また宿 元からの使にも容易に会はれず、平八郎の用事で外出したを幸に、 英太郎は我が家へ立寄つた所、父から前の如く命ぜられたのであ る。帰塾後彼は八十次郎と相談し、平八郎の手許から檄文を一枚 取隠し、尚も様子を伺つて居ると、十六日頃から一味の面々が毎 日参会する。十八日の晩兵庫西出町の長太夫が来て平八郎と表の 間で面会した時、一同は奥座敷で酒宴をしてゐたが、長太夫の帰 つた後で平八郎父子も奥座敷へ入り、明日は町奉行を討取らう、 所々へ放火しようとの話が聞えるので、もう猶余する場合で無い と考ヘ、早速立退かうとしたが、万一認められては一大事と、両 名にて先日失踪した郷左衛門を捜索に行く旨の遺書を残し、竊取 つた檄文を懐中にして九郎右衛門方へ駈付けた。九郎右衛門は右 檄文に前以て認置いた訴状を添へ、時を移さず両名をして山城守 へ出訴せしめようとしたが、山城守の側には一味の瀬田済之助小 泉淵次郎が当番をして居る筈故、迂闊に出訴しては折角の本意を 達しかねると心付き、支配違の伊賀守の許へ駈付けしめた。両名 は家老中泉撰司の長屋で委細を申述べた後、改めて組同心へお預 となり、又騒動の時出入の男の肩に縋つて曾根崎村へ立退いた九 郎右衛門は、翌日伊賀守役所へ呼出され、一応取調の上江戸許定 所へ引渡となつた。


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