英太郎
八十次郎
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英太郎は十六歳八十次郎は十八歳の少年で、旧冬は火薬の調合を
手伝ひ、檄文の印刷に従事し、内々怪しくは思つたものゝ、親共
が同志のやうに見えるので黙つて居つた、其中郷左衛門の出奔以
来益々平八郎が怖しく、さりとて退塾は勿論宿元へ帰ることも出
来ず、又宿元からの使にも容易に会はれず、用事で外出したを幸
に、英太郎は我家へ立寄つた所、父から前の如く命ぜられたので
ある、帰塾後彼は八十次郎と相談し、平八郎の手元から檄文を一
枚取隠し、尚も様子を伺つて居ると、十六日頃から一味の面々が
毎日参会する。十八日の晩兵庫西出町の長太夫が来て平八郎と表
の間で面会した時、一同は奥座敷で酒宴をしてゐたが呼込うとも
せず、、長太夫の帰つた後で平八郎父子も奥座敷へ入り、明日は
町奉行を討取らう、所々へ放火しやうとの話が聞えるので、もう
猶予する場合で無いと考ヘ、早速立退かうとしたが、万一認めら
れては一大事と、両名にて先日失踪した郷左衛門を捜索に行く旨
の遺書を残し、竊取つたる檄文を懐中にして九郎右衛門方へ駈付
けた、其処で九郎右衛門は右檄文に前以て認置いたる訴状を添へ、
時を移さず両名をして山城守へ出訴せしめやうとしたが、山城守
の手許には一味の瀬田済之助小泉淵次郎が当番をして居る筈故、
迂闊に出訴しては折角の本意を達しかねると心付き、支配違なる
伊賀守の許へ駈付けしめた、両名は家老中泉撰司の長屋に於て委
細を申述べたる後改めて組同心へお預けとなり、又暴動の初に出
入の男の肩に縋つて曾根崎村へ立退いた九郎右衛門は、翌日伊賀
守役所へ呼出され、一応取調の上江戸許定所へ引渡となつた。
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英太郎は十六歳、八十次郎は十八歳の少年で、旧冬火薬の調合
を手伝ひ、檄文の印刷に従事し、内々奇怪に思つたものの、親共
が同志のやうに見えるので黙つて居つたが、郷左衛門の出奔以来
益々平八郎が怖しく、さりとて退塾は勿論帰宅も出来ず、また宿
元からの使にも容易に会はれず、平八郎の用事で外出したを幸に、
英太郎は我が家へ立寄つた所、父から前の如く命ぜられたのであ
る。帰塾後彼は八十次郎と相談し、平八郎の手許から檄文を一枚
取隠し、尚も様子を伺つて居ると、十六日頃から一味の面々が毎
日参会する。十八日の晩兵庫西出町の長太夫が来て平八郎と表の
間で面会した時、一同は奥座敷で酒宴をしてゐたが、長太夫の帰
つた後で平八郎父子も奥座敷へ入り、明日は町奉行を討取らう、
所々へ放火しようとの話が聞えるので、もう猶余する場合で無い
と考ヘ、早速立退かうとしたが、万一認められては一大事と、両
名にて先日失踪した郷左衛門を捜索に行く旨の遺書を残し、竊取
つた檄文を懐中にして九郎右衛門方へ駈付けた。九郎右衛門は右
檄文に前以て認置いた訴状を添へ、時を移さず両名をして山城守
へ出訴せしめようとしたが、山城守の側には一味の瀬田済之助小
泉淵次郎が当番をして居る筈故、迂闊に出訴しては折角の本意を
達しかねると心付き、支配違の伊賀守の許へ駈付けしめた。両名
は家老中泉撰司の長屋で委細を申述べた後、改めて組同心へお預
となり、又騒動の時出入の男の肩に縋つて曾根崎村へ立退いた九
郎右衛門は、翌日伊賀守役所へ呼出され、一応取調の上江戸許定
所へ引渡となつた。
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