万太郎の卑怯
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茲に返忠が返忠に立たず、却つて死後の悪名を残したは同志の一
人弓同心竹上万太郎である、万太郎は二月十三日連判に加り、十
六、十七、十八と三日つゞけて平八郎宅へ行き、十九日には所持
の鉄砲を携へて駈付けながら、家族を立退かせた上で存分の働を
したいと、平八郎へ断つて我家へ引還し、何事も告げずに母並に
妻・娘・下女等を立退かせ、弓奉行上田五兵衛同鈴木次左衛門両
名宛に、前非後悔につき宜敷家名相続を願ふといふ虫の好い願書
を認め、而もそれを懐中したまゝ諸所方々を立廻り、同役吉田邦
次郎に出会した時始て之を渡し、何事であるかと問はれても返事
もせず、播州路まで逃げて往つた、万太郎の申口によると連判状
に署名血判をしたのは、若し不承知と言へば、自分は勿論縁者の
孝右衛門まで無難に婦宅することは出来ぬ、奥の間では鉄砲に玉
込をして切火繩に火を移し、否と言へば打殺さうとの景色が見え
る、犬死をして家名断絶とならんより、寧ろ一旦その意に随ひ、
折を見て平八郎を諌め、右の企を中止せしめたら、師弟の義理も
立つと思つて承知の返事をしたのである、十五日孝右衛門に面会
の際其旨を相談に及んだ所、彼は一味の心固くして動かず、因て
自分一己の誠心を以て平八郎を諌めやうと、十六日に大塩邸に赴
いたが好き機会なく、十七日に檄文を渡され、これは内密頭へ申
立つべき筋と心付いたが、左様しては師の一命に拘り、大塩家も
断絶するだらう、且つ斯る計画を軽率に実行することはあるまい
と考へて其儘となり、十八日には兼て研を依頼した刀を渡され、
明朝は鉄砲を持参せよ、損所を修復し遣はすべしと言はれ、平八
郎父子其他と酒宴を開き夜四ツ時帰宅致したとある、平八郎を諌
めやうとした考は殊勝気であるが、三日もつゞけて大塩邸を訪問
しながら、何故一回も之を試みなんだか。十九日の朝鉄砲を携へ
て駈付けながら、復我家へ引還した所を以て見ると、臆病風に誘
はれたものと外考へられぬ、申口に言ふ所は体裁を繕つた計で、
信用する訳には行かぬ、訴状を懐中しながら甲地乙地を彷徨した
などは、首鼠両端遷延躊躇の証である、同じく裏切とはいへ、評
定所の申渡書に、助次郎九郎右衛門は御譜代小普請入とあるに反
し、万太郎が三郷引廻の上磔刑となつたも自業自得であらう。
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茲に返忠が返忠に立たず、却つて死後の悪名を残したは同志の
一人弓同心竹上万太郎である。万太郎は二月十三日連判に加はり、
十六・十七・十八と三日続けて平八郎宅へ行き、十九日には所持
の鉄砲を携へて駈付けながら、家族を立退かせた上で存分の働を
したいと、平八郎へ断つて我家へ引還し、何事も告げずに母・妻・
娘・下女等を立退かせ、弓奉行上田五兵衛同鈴木次左衛門両名宛
に、前非後悔につき宜敷家名相続を願ふといふ虫の好い願書を認
め、而もそれを懐中したまゝ諸所方々を立廻り、同役吉田邦次郎
に出会した時始めて之を渡し、何事であるかと問はれても返事も
せず、播州路まで逃げて往つた。万太郎の申口によると、連判状
に署名血判をしたのは、若し不承知と言へば、自分は勿論縁者の
孝右衛門まで無難に婦宅することは出来まい、奥の間では鉄砲に
玉込をして切火繩に火を移し、否と言へば打殺さうとの景色が見
える、犬死をして家名断絶となるより、寧ろ一旦その意に随ひ、
折を見て平八郎を諌め、右の企を中止せしめたら、師弟の義理も
立つと思つて承知の返事をしたのである。十五日孝右衛門に面会
の際所存の旨を告げた所、彼は一味の心固くして動かず、因て自
分一己の誠心を以て平八郎を諌めようと、十六日に大塩邸に赴い
たが好き機会なく、十七日に檄文を渡され、これは頭へ密告すべ
き筋と心付いたが、左様しては師の一命に拘はり、大塩家の断絶
となるであらう、且つ斯る計画を軽率に実行することはあるまい
と考へてその儘になり、十八日にはかねて研を依頼した刀を渡さ
れ、明朝は鉄砲を持参せよ、損所を修復し遣はすと平八郎に言は
れ、その夜は一同と酒宴を開き四時帰宅したとある。平八郎を諌
めようとした考は殊勝であるが、三日も続けて大塩邸を訪問しな
がら、何故一回も之を試みなんだか。十九日の朝鉄砲を携へて駈
付けながら、復我家へ引還したは、臆病風に誘はれたものと外考
へられぬ。訴状を懐中しながら甲地乙地を彷徨したは、首鼠両端
遷延躊躇の証である。同じく裏切とはいへ、評定所の申渡書に、
助次郎九郎右衛門は御譜代小普請入とあるに反し、万太郎が三郷
引廻の上磔刑となつたも自業自得であらう。
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