矩之允殺害
に関する伝
説
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進軍に先ち大塩邸では一大悲劇が演ぜられた、それは平八郎が門
人大井正一郎をして、同門宇津木靖通称矩之允を残殺せしめたこ
とである、普通の史料には矩之允を敬治とし、彼は天保五年故郷
彦根を出でゝ洗心洞塾へ入門寄宿し、其後長崎に遊び、運拙くも
暴挙の前々日、安治川へ着いて、天満の旧師の許へ帰つた、彼は
達て一味に加入せよと勧められたが、毛頭之を聴入れぬ、聴入れ
ぬのみか其無謀を諌めた、併し一旦言出しては後へ退かぬ平八郎
であるから、活して還すことは無い、さりとて徒党に加れば、主
家の名を汚し、忠孝の途に外れる、止むを得ず一命を抛つて平八
郎及一味の輩へ諌言を加へやうと覚悟し、十八日の晩その趣を細
々と認め、僕の友蔵に持たせて故郷へ遣つた、案の如く平八郎は
今更敬治の言葉に従ふ筈はなく、却て正一郎に敬治を殺せと命じ
たは、丁度敬治が厠に居た時である、其所で正一郎が追取刀で立
たうとしたら、イヤ刀では覚束ない、槍にて突留めよと平八郎か
ら注意され、正一郎は今厠から出て手を漑ぎゐる敬治に対ひ、宇
津木氏、先生に一命をたまはれと、槍を扱いて突いてかゝれば、
敬治は と縁側に座し、自ら肌を寛げ、御存分にと答へて槍を受
けたと伝へ、友蔵に与へて故郷へ送つたといふ書面を載せてゐる、
宛然一場の芝居を見る様だ。
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進軍に先立ち大塩邸で一大悲劇が演ぜられた。それは平八郎が
門人大井正一郎をして、同門宇津木靖通称矩之允をを残殺せしめ
たことである。普通の大塩伝には矩之允を敬治とし、彼は天保五
年故郷彦根を出でゝ洗心洞塾へ入門寄宿し、その後通長崎に遊び、
運拙くも暴挙の前々日、安治川へ着いて、天満の旧師の許へ帰つ
た。彼は達ッて一味に加入せよと師より勧められたが、毛頭之を
聴入れぬ、否聴入れぬのみかその無謀を諌めた。併し一旦言出し
ては後へ退かぬ平八郎であるから、活して還すことは無い。さり
とて徒党に加はれば、主家の名を汚し、忠孝の途に外れる。一命
を抛つて今一度師及び一味の輩へ諌言を加へようと覚悟し、十八
日の晩その趣を細々と認め、僕の友蔵に持たせて故郷へ遣つた。
案の如く平八郎は今更敬治の言葉に従ふ筈はなく、却つて正一郎
に敬治を殺せと命じたは、丁度敬治が厠に居た時である。正一郎
が師命に応じ、追取刀で立たうとしたら、イヤ刀では覚来ない、
槍にて突留めよと平八郎から注意され、正一郎は今厠から出て手
を漑ぎゐる敬治に対ひ、宇津木氏、先生に一命をたまはれと、槍
を扱いて突いてかゝれば、敬治は と縁側に座し、自ら肌を寛げ、
御存分にと答へて槍を受けたと伝へ、友蔵に与へて故郷へ送つた
といふ書面を載せてゐる、宛然一場の芝居を見る様だ。
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