Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.10.11/10.13修正

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その126

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  四 悲劇 (2)
 改 訂 版


疑問








友蔵





良之進

併し此話の中には少からず誤謬がある、第一評定所の吟味書には 矩之允とあつて敬治とは無い、箚記附録抄にも俵二とはあるが敬 治とは無い、第二に挙兵の前々日に安治川へ着いたといへば、真 に不運の極であるが、評定所の吟味書によると全く違ふ、矩之允 が大塩方に入門寄宿したのは天保五年で、長崎遊学の後、七年四 月一且帰国し、同年六月上阪して再び洗心洞塾に寄宿し、暴動の 当日に殺されたとある、第三に敬治の僕友蔵は旅行中永永に主人 に仕へ、殊に昨年主人病気の節は厚く看護の労を執つたと例の遣 書中にあるが、評定所の吟味書中絶えて友蔵の名を見ず、矩之允 の従者としては良之進なる者の名が載つて居る、良之進は長崎西 築町の医師岡田道玄の子で、幼少より学問を好み、天保六年九月 十四歳の時会々遊歴に来れる矩之允の弟子となり、其以来常に師 と同行した男だ。さすれば友蔵と良之進とは異名同人かといふに 決して左様でない、一般の伝説によれば、友蔵は十九日に大津の 代官石原清左衛門の手に召捕られ、大阪町奉行所へ護送となり、 廿二日に吟味を受けたとあるのみで、其結末が一向解らぬ、解ら ぬも道理全く架空に構へた人物で、良之進は師命を守り遺書を携 ヘ、京都を経て廿一日宇津木下総の家来大森権之進の許へ往つた と明白に解つて居る、第四に友蔵が所持してゐた敬治の遣書は友 蔵が架空の人物である如く、これも亦極て怪しいもので、良之進 が彦根へ持参した遣書とは全く相違し、似ても似つかぬものであ る。

併しこの話は何処から出たか。第一評定所の吟味書には矩之允と あつて敬治とは無い。剳記附録抄にも俵二とはあるが敬治とは無 い。第二に挙兵の前々日に安治川へ着いたといへば、真に不運の 極であるが、評定所の吟味書によると全く違ふ。矩之允が大塩方 に入門寄宿したのは天保五年で、長崎遊学の後、七年四月一且帰 国し、同年六月この年月に誤謬がありはせぬかと思ふが、是正す るだけの林料を持合はさぬ上阪して再び洗心洞塾に寄宿し、暴動 の当日に殺されたとある。第三に敬治の僕友蔵は旅行中忠実に主 人に仕へ、殊に昨年主人病気の節は厚く看護の労を執つたと例の 遣書中にあるが、評定所の吟味書中絶えて友蔵の名を見ず、矩之 允の従者としては良之進なる者の名が載つて居る。良之進は長崎 西築町の医師岡田道玄の子で、幼少より学問を好み、天保六年九 月十四歳の時会々遊歴に来れる矩之允の弟子となり、以来常に師 と同行した男だ。さすれば友蔵と良之進とは異名同人かといふに 決して左様でない。普通の説によれば、友蔵は十九日に大津の代 官石原清左衛門の手に召捕られ、大阪町奉行所へ護送となり、廿 二日に吟味を受けたとあるのみで、その結末が一向解らぬ。良之 進は師命を守り遺書を携ヘ、京都を経て廿一日宇津木下総の家来 大森権之進の許へ往つたと明白に解つて居る。友蔵といふ人物は 果たして実在したか。不審に堪へぬ。第四に友蔵が所持してゐた 敬治の遣書と良之進が彦根へ持参した遣書とは全く相違し、前者 は俗文、後者は漢文、似ても似つかぬものである。若し友蔵が架 空の人物だとすれば、彼が携へた敬治の遣書も怪しいものと言は ざるを得ぬ、


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