疑問
友蔵
良之進
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併し此話の中には少からず誤謬がある、第一評定所の吟味書には
矩之允とあつて敬治とは無い、箚記附録抄にも俵二とはあるが敬
治とは無い、第二に挙兵の前々日に安治川へ着いたといへば、真
に不運の極であるが、評定所の吟味書によると全く違ふ、矩之允
が大塩方に入門寄宿したのは天保五年で、長崎遊学の後、七年四
月一且帰国し、同年六月上阪して再び洗心洞塾に寄宿し、暴動の
当日に殺されたとある、第三に敬治の僕友蔵は旅行中永永に主人
に仕へ、殊に昨年主人病気の節は厚く看護の労を執つたと例の遣
書中にあるが、評定所の吟味書中絶えて友蔵の名を見ず、矩之允
の従者としては良之進なる者の名が載つて居る、良之進は長崎西
築町の医師岡田道玄の子で、幼少より学問を好み、天保六年九月
十四歳の時会々遊歴に来れる矩之允の弟子となり、其以来常に師
と同行した男だ。さすれば友蔵と良之進とは異名同人かといふに
決して左様でない、一般の伝説によれば、友蔵は十九日に大津の
代官石原清左衛門の手に召捕られ、大阪町奉行所へ護送となり、
廿二日に吟味を受けたとあるのみで、其結末が一向解らぬ、解ら
ぬも道理全く架空に構へた人物で、良之進は師命を守り遺書を携
ヘ、京都を経て廿一日宇津木下総の家来大森権之進の許へ往つた
と明白に解つて居る、第四に友蔵が所持してゐた敬治の遣書は友
蔵が架空の人物である如く、これも亦極て怪しいもので、良之進
が彦根へ持参した遣書とは全く相違し、似ても似つかぬものであ
る。
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併しこの話は何処から出たか。第一評定所の吟味書には矩之允と
あつて敬治とは無い。剳記附録抄にも俵二とはあるが敬治とは無
い。第二に挙兵の前々日に安治川へ着いたといへば、真に不運の
極であるが、評定所の吟味書によると全く違ふ。矩之允が大塩方
に入門寄宿したのは天保五年で、長崎遊学の後、七年四月一且帰
国し、同年六月この年月に誤謬がありはせぬかと思ふが、是正す
るだけの林料を持合はさぬ上阪して再び洗心洞塾に寄宿し、暴動
の当日に殺されたとある。第三に敬治の僕友蔵は旅行中忠実に主
人に仕へ、殊に昨年主人病気の節は厚く看護の労を執つたと例の
遣書中にあるが、評定所の吟味書中絶えて友蔵の名を見ず、矩之
允の従者としては良之進なる者の名が載つて居る。良之進は長崎
西築町の医師岡田道玄の子で、幼少より学問を好み、天保六年九
月十四歳の時会々遊歴に来れる矩之允の弟子となり、以来常に師
と同行した男だ。さすれば友蔵と良之進とは異名同人かといふに
決して左様でない。普通の説によれば、友蔵は十九日に大津の代
官石原清左衛門の手に召捕られ、大阪町奉行所へ護送となり、廿
二日に吟味を受けたとあるのみで、その結末が一向解らぬ。良之
進は師命を守り遺書を携ヘ、京都を経て廿一日宇津木下総の家来
大森権之進の許へ往つたと明白に解つて居る。友蔵といふ人物は
果たして実在したか。不審に堪へぬ。第四に友蔵が所持してゐた
敬治の遣書と良之進が彦根へ持参した遣書とは全く相違し、前者
は俗文、後者は漢文、似ても似つかぬものである。若し友蔵が架
空の人物だとすれば、彼が携へた敬治の遣書も怪しいものと言は
ざるを得ぬ、
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