実説
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良之進は後に名を恒庵と改め、野田笛浦の塾にゐた、其節同門に
田中従吾軒といふ人があつた、恒庵から当時の状況を聞取り、之
を名家談叢第拾号及び第拾二号に載せられたが、矩之允残殺一件
については評定所の吟味書と能く合ふ、今両書を参酌して事件の
大綱を迹ぶると下の如くである、良之進は矩之允に随身して大塩
邸に寄宿して居つたが、暴動の当日朝六ッ半時頃家内の建具を打
壊す音に目を醒し、何事かと訝る間もなく、役立たぬ者は討捨て
て仕舞へといふ声に吃驚し、飛起きて矩之允の臥床に近寄り、其
旨を告げると、矩之允も承知の体にて声を潜め、我師は短気の性
分にて、平生門人を教へるにも抜身を振廻すやうな事もあるが、
未明からの教授でもあるまいし、其上昨夜深更面会の節、若し天
下に異変起らばいかゞ身を処置するかと問はれた事を考合すと、
何様大事を企て居る如く見ゆるが、昨夜はたゞ不審に心得たのみ
で、碇と我師の心底を見極めたとはいへず、今一度と心懸けて居
つた所、今朝の騒動、此上は時宜によつては師恩に頓着なく、平
八郎を討捨て、拙者も即座に自殺するにつき、兼て京都東本願寺
家臣栗津陸奥之助に貸置ける詩集を受取り、此碑文と共に兄下総
家来大林権之進に渡し呉れよ、碑文中には矩之允が最期の遣腸を
認めてあるといつて、即座に美濃紙二枚続に一篇の漢文を認め、
良之進に手渡した、
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良之進は後に名を恒庵と改め、野田笛浦の塾にゐた。その同門に
田中従吾軒といふ人があつて、恒庵から当時の状況を聞取り、之
を名家談叢第拾号及び第拾二号に載せられたが、矩之允残殺一件
については許定所の吟味書と能く合ふ。今両書を参酌して事件の
大綱を迹ぶると下の如くである。
■実説
良之進は矩之允に随身して大塩邸に寄宿して居つたが、暴動の
当日朝六ッ半時頃家内の建具を打壊す音に目を醒し、何事かと訝
る間もなく、役立たぬ者は討捨てて仕舞へといふ声に吃驚し、飛
起きて短之允の臥床に近寄り、その旨を告げると、矩之允も承知
の体にて声を潜め、我が師は短気の性分にて、平生門人を教へる
にも抜身を振廻すやうな事もあるが、未明からの教授でもあるま
い。昨夜深更面会の節、若し天下に異変起らばいかゞ身を処する
かと問はれた事を考合すと、何様大事を企てゝ居るやうに見ゆる
が、昨夜はたゞ不審に心得たのみで、碇と我が師の心底を見極め
たとはいへず、今一度と心懸けて居つた所、今朝の騒動、この上
は時宜によつては師恩に頓着なく、平八郎を討捨て、拙者も即座
に自殺するにつき、兼て京都東本願寺家臣栗津陸奥之助に貸置け
る詩集を受取り、この書と共に兄下総の家来大林権之進に渡し呉
れよ。書中には矩之允が最期の遣腸を認めてあるといつて、即座
に美濃紙二枚続に一篇の漢文を認め、良之進に手渡した。
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