Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.10.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その127

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  四 悲劇 (3)
 改 訂 版


実説   

良之進は後に名を恒庵と改め、野田笛浦の塾にゐた、其節同門に 田中従吾軒といふ人があつた、恒庵から当時の状況を聞取り、之 を名家談叢第拾号及び第拾二号に載せられたが、矩之允残殺一件 については評定所の吟味書と能く合ふ、今両書を参酌して事件の 大綱を迹ぶると下の如くである、良之進は矩之允に随身して大塩 邸に寄宿して居つたが、暴動の当日朝六ッ半時頃家内の建具を打 壊す音に目を醒し、何事かと訝る間もなく、役立たぬ者は討捨て て仕舞へといふ声に吃驚し、飛起きて矩之允の臥床に近寄り、其 旨を告げると、矩之允も承知の体にて声を潜め、我師は短気の性 分にて、平生門人を教へるにも抜身を振廻すやうな事もあるが、 未明からの教授でもあるまいし、其上昨夜深更面会の節、若し天 下に異変起らばいかゞ身を処置するかと問はれた事を考合すと、 何様大事を企て居る如く見ゆるが、昨夜はたゞ不審に心得たのみ で、碇と我師の心底を見極めたとはいへず、今一度と心懸けて居 つた所、今朝の騒動、此上は時宜によつては師恩に頓着なく、平 八郎を討捨て、拙者も即座に自殺するにつき、兼て京都東本願寺 家臣栗津陸奥之助に貸置ける詩集を受取り、此碑文と共に兄下総 家来大林権之進に渡し呉れよ、碑文中には矩之允が最期の遣腸を 認めてあるといつて、即座に美濃紙二枚続に一篇の漢文を認め、 良之進に手渡した、

良之進は後に名を恒庵と改め、野田笛浦の塾にゐた。その同門に 田中従吾軒といふ人があつて、恒庵から当時の状況を聞取り、之 を名家談叢第拾号及び第拾二号に載せられたが、矩之允残殺一件 については許定所の吟味書と能く合ふ。今両書を参酌して事件の 大綱を迹ぶると下の如くである。 ■実説  良之進は矩之允に随身して大塩邸に寄宿して居つたが、暴動の 当日朝六ッ半時頃家内の建具を打壊す音に目を醒し、何事かと訝 る間もなく、役立たぬ者は討捨てて仕舞へといふ声に吃驚し、飛 起きて短之允の臥床に近寄り、その旨を告げると、矩之允も承知 の体にて声を潜め、我が師は短気の性分にて、平生門人を教へる にも抜身を振廻すやうな事もあるが、未明からの教授でもあるま い。昨夜深更面会の節、若し天下に異変起らばいかゞ身を処する かと問はれた事を考合すと、何様大事を企てゝ居るやうに見ゆる が、昨夜はたゞ不審に心得たのみで、碇と我が師の心底を見極め たとはいへず、今一度と心懸けて居つた所、今朝の騒動、この上 は時宜によつては師恩に頓着なく、平八郎を討捨て、拙者も即座 に自殺するにつき、兼て京都東本願寺家臣栗津陸奥之助に貸置け る詩集を受取り、この書と共に兄下総の家来大林権之進に渡し呉 れよ。書中には矩之允が最期の遣腸を認めてあるといつて、即座 に美濃紙二枚続に一篇の漢文を認め、良之進に手渡した。


田中従吾軒「大塩平八郎の話」「再び大塩平八郎に就て
『浪華姦賊罪案』その58


「大塩平八郎」目次3/ その126/その128

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