其二
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第二は坂部能登守広高に勧めて与力同心に武芸を奨励せしめた
といふことで、一体京橋口玉造口両定番配下の与力同心は城付
であるから、主として武芸を練習したものだが、町奉行組の与
力同心中には文学武芸共に余り行れなかつた、然るに平八郎は
佐分利流の槍術を能く遣ひ、玉造口与力柴田勘兵衛から免許を
受けた位故、平八郎が兵庫勤番の節、姫路藩の宝蔵院流槍術指
南番と他流試合をして、師柴田勘兵衛から戒められたことは附
録(二)(三)に見える武芸奨励の献策は事実らしくあるが、能登
守は寛政四年四月に町奉行となり、同七年六月に江戸町奉行に
栄転してゐるから、能登守とあるのは間違だ、
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その四
第四は坂部能登守広高に勧めて与力同心に武芸を奨励せしめ
たといふことで、一体京橋口玉造口両定番配下の与力同心は城
附であるから、主として武芸を練習したものだが、町奉行組の
与力同心中には文学武芸共に余り行はれなかつた。然るに前記
の如く平八郎は佐分利流の槍術を能く遣ひ、免許を受けた位故、
武芸奨励の献策は事実らしくあるが、能登守は寛政四年四月に
町奉行となり、同七年六月に江戸町奉行に栄転してゐるから、
能登守とあるは間違に相違ない。
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