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功を忘れ候得共、事は忘れ不申、巨細貴君御心得迄猶可得貴意旨
承知仕候、右は僕御奉公中兼々御咄申通、功を忘れ、事を不忘と
申儀者、才徳相備又ハ正直成ル人者格別、通例才智有之人、其主
君へ仕へ候ても、先自分之利慾をハ第一に存候もの多、万一天下
又者其主君之為に相成候事心付、骨折相働候共、大抵其底意にハ
此位の褒美、此位の官職、此位の知行を可貰と、心中に自分と荒
積の約束いたし置、其上にハ人に不被悪様、不被誹様、功あれは
自分にも掛り、罪咎あれは上たる人へもぬすくり、又は同役一同
之過に可致と内心相巧勤候上下之習故、真実に忠義を可尽と決心
之者ハ甚稀成る通情に付、其働成就之後、其功に依而褒美官職知
行抔貰候と、自分一家之栄を相喜相慶し、実心其主家天下之事を
不思勝成ルものに御座候、是義何レも只今に始候事には無之、古
より之流弊に候、僕其義を嘆息いたし候付、先年より追々其私情
を去候工夫に力を尽し、下賎なから心付候事は身并家をも不顧、
寸心一抔に尽し、誠に危事共相犯し候、爾来或人に被悪被忌、或
人に被妬被誹、或頭の耳に逆候事共諌諍いたし候義、中には貴兄
も御存有之候通にて、僕引構候御用向におゐて、功あれは頭支配
之上たる人へ帰し、過咎も有之候節は自分一人引受可申覚悟、其
事跡心実とも兼々粗御聞見有之候次第にて、先宿願之通三年已前
御暇乞退身仕候、山城殿参府に付思付候事には無之、邪宗門吟味
之節、京都同列之者とも兼而談候事有之義は難取失、士之一言泰
山磐石よりも重く、前以御暇内願罷在候義も及御聞候通にて、首
尾よく退身仕候とも、二百年余先祖 僕之父母に至迄、難有も御
代々様御恩沢を以相続仕来、僕之身に至迄無恙命を続、太平を楽
来、冥加之至、如何体相働候とも、年来の御恩沢万分之一も難奉
報、縦天下之大功を相立候とも相忘れ可申筋、殊に与力勤役中之
義は誠に当り前之事に付、思切退身御暇願候故、功を忘れ候と申
義にて、しかし御暇受候共、素々
神君様御馬先におゐて功名仕、御手つから御弓拝領仕候大塩披右
衛門血当之僕二付、下賎なから
君臣之名分は一生難離、殊今以忰御抱入席なから相勤、御切米頂
戴、右を以身命相養居候付、人々え教授いたし候にも外なく、君
へは真に忠を尽し、親へも真に孝を尽し、表斗に善をいたさす、
内心人之不知処におゐても利心悪念不挟候様にと申勧候付、事は
相忘不申候一端に御座候、且無之事に者候得共、天下御大切之是
と申事之節者、隠者なからも急度砕身粉骨可致積、夫故事は不忘
と申義にて平生世間の事者万端可預様無之事、
此消息は平八郎より同僚荻野勘左衛門忰四郎助後改名七郎
右衛門に送りしものにして、其年代は本文に「三年已前御
暇乞退身仕候」とあれば天保三年なり、四郎助は平八郎の
門人なりしかば、乱後万一の事あらんを慮りて差出人及宛
名を剪除せしといふ、巻首に載せたるコロタイプ版は本文
の一部にして平八郎が大塩波右衛門の血統なることを証明
せるもの、平八郎養子説の誤謬なること知るべきのみ、
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功を忘れ候得共、事は忘れ不申、巨細貴君御心得迄猶可得貴意
旨承知仕候。右は僕御奉公中兼々御咄申通、功を忘れ、事を不忘
と申儀者、才徳相備又ハ正直成ル人者格別、通例才智有之人、其
主君へ仕へ候ても、先自分之利慾をハ第一に存候もの多、万一天
下又者其主君之為に相成候事心付、骨折相働候共、大抵其底意に
ハ此位の褒美、此位の官職、此位の知行を可貰と、心中に自分と
荒積の約束いたし置、其上にハ人に不被悪様、不被誹様、功あれ
は自分にも掛り、罪咎あれは上たる人へもぬすくり、又は同役一
同之過に可致と内心相巧勤候上下之習故、真実に忠義を可尽と決
心之者ハ甚稀成る通情に付、其働成就之後、其功に依而褒美官職
知行抔貰候と、自分一家之栄を相喜相慶し、実心其主家天下之事
を不思勝成ルものに御座候、是義何レも只今に始候事には無之、
古より之流弊に候、僕其義を嘆息いたし候付、先年より追々其私
情を去候工夫に力を尽し、下賎なから心付候事者、身并家をも不
顧、寸心一杯に尽し、誠に危事共相犯し候。爾来或人に被悪被忌、
或人に被妬被誹、或頭の耳に逆候事共諌諍いたし候義、中には貴
兄も御存有之候通にて、僕引構候御用向におゐて、功あれは頭支
配之上たる人へ帰し、過咎も有之候節は自分一人引受可申覚悟、
其事跡心実とも兼々粗御聞見有之候次第にて、先宿願之通三年已
前御暇乞退身仕候。山城殿参府に付思付候事には無之、邪宗門吟
味之節、京都同列之者とも兼て談候事有之義は難取失、士之一言
泰山磐石よりも重く、前以御暇内願罷在候義も及御聞候通にて、
首尾よく退身仕候とも、二百年余先祖 僕之父母に至迄、難有も
御代々様御恩沢を以相続仕来、僕之身に至迄無恙命を続、太平を
楽来、冥加之至、如何体相働候とも、年来の御恩沢万分之一も難
奉報、縦天下之大功を相立候とも相忘れ可申筋、殊に与力勤役中
之義は誠に当り前之事に付、思切退身御暇願候故、功を忘れ候と
申義にて、しかし御暇受候共、素々
神君様御馬先におゐて功名仕、御手つから御弓拝領仕候大塩披右
衛門血当之僕二付、下賎ながら
君臣之名分は一生難離、殊今以忰御抱入席なから相勤、御切米頂
戴、右を以身命相養居候付、人々え教授いたし候にも外なく、君
へは真に忠を尽し、親へも真に孝を尽し、表斗に善をいたさす、
内心人之不知処におゐても利心悪念不挟候様にと申勧候付、事は
相忘不申候一端に御座候。且無之事に者候得共、天下御大切之是
と申事之節者、隠者なからも急度砕身粉骨可致積、夫故事は不忘
と申義にて平生世間の事者万端可預様無之事、
この消息は平八郎より同僚荻野勘左衛門忰四郎助(後七郎
右衛門と改む)に送りしもの。四郎助は平八郎の門人なり
しを以て、乱後万一の事あらんを慮り、差出人月日及び宛
名を剪除したといふ。然れども本文中に「三年已前御暇乞
退身仕候」とあれば天保三年のものであることは明白だ。
巻首に載せた写真版は平八郎が大塩波右衛門の血統なるこ
とを自記せる本文の一部である。
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