三大功績
高井山城守
実徳
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平八郎在職中の三大功績は、頼山陽が大塩子起―子起とは平八
郎の字―の尾張へ適くを送る序附録(七)又は斎藤拙堂が洗心洞
箚記の贈与に報じた書に出てゐる、平八郎自ら辞職の詩の序附
録(六)に記してある所を以て見れば、彼が三事件に対する明察
快断は一世を聳動せしめたのみならず、彼自身に取つても亦非
常に会心の事であつたらしい、第一の耶蘇教徒逮捕一件は文政
十年四月に起り、三年を費して落着し、第二の奸吏糺弾一件は
同十二年三月に起り、疾雷耳を掩ふの遑あらざる間に結了し、
第三の破戒僧侶遠島一件は同十三年三月に起り、再三訓戒を加
へた後、改悛の状なき者数十名を遠島に処したので、孰も高井
山城守在任中である、山城守は名を実徳といひ、文政三年十一
月山田奉行から大阪町奉行に転じ、能く平八郎の人と為りを見
貫いて大事を托し、平八郎も亦吉凶禍福を度外に措いて山城守
の為に尽し、その転任と共に辞職して仕舞つたのである、而し
て以上三件中第一に就いては、挙兵後平八郎を捕縛に向つた西
組与力内山彦次郎の留書に、邪宗門一件書留と題する二冊もの
があつて、委細を知り得るが、不幸にして第二第三に就いては
未だ詳密なる史科を発見し得ぬ、尤も第二の件即ち西組与力
ユゲ
弓削新右衛門に詰腹を切らした事の如きは、故に之を隠微の間
に葬つたものと考へらるゝ、天保八年刊行の大阪袖鑑といふ一
種の武鑑に、西組与力中弓削卯八郎の名のある所から推すと、
新右衛門には詰腹を切らせたが、其次第は之を表向にせずして
家名を保存せしめたもので、従つて此一件が明白に解らぬも、
寧ろ当然と言はねばならぬ。
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平八郎在職中の三大功績は、頼山陽や斎藤拙堂の文章にある
ばかりでなく、平八郎自身辞職詩并序附録(一)に記してゐる。
之によれば、三事件に対する彼の明察快断は一世を聳動せしめ
たのみならず、彼自身に取つても亦非常に会心の事であつたら
しい。第一の耶蘇教徒逮捕一件は文政十年四月に起り、三年を
費して落着し、第二の奸吏糺弾一件は同十二年三月に起り、疾
雷耳を掩ふの遑あらざる間に結了し、第三の破戒僧侶遠島一件
は同十三年三月に起り、再三訓戒を加へた後、改悛の状なき者
数十名を遠島に処したので、孰れも高井山城守在任中である。
山城守は名を実徳といひ、文政三年十一月山田奉行から大阪町
奉行に転じ、能く平八郎の人と為りを見貫いて大事を托し、平
八郎も亦吉凶禍福を度外に措いて山城守の為に尽し、その転任
と共に辞職して仕舞つたのである。
以上三件中第一に就いては、挙兵後平八郎を捕縛に向つた西
組与力内山彦次郎の留書に、邪宗門一件書留と題する二冊もの
があつて、委細を知り得るが、不幸にして第二第三に就いては
ユゲ
未だ詳密なる史科を発見せぬ。尤も第二の件即ち西組与力弓削
新右衛門に詰腹を切らした事の如きは、故に之を隠微の間に葬
つたものと考へられる。天保八年刊行の大阪袖鑑に、西組与力
中弓削卯八郎の名を存する所から推すと、新右衛門には詰腹を
切らせたが、その次第は之を表向にせずして家名を保存せしめ
たものと思はれる。従つてこの一件が明白に解らぬのは、寧ろ
当然と言はねばならぬ。
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