Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.2.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その22

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  二 三大功績 上 (11)
 改 訂 版

三大功績


















高井山城守
実徳

平八郎在職中の三大功績は、頼山陽が大塩子起―子起とは平八 郎の字―の尾張へ適くを送る序附録(七)又は斎藤拙堂が洗心洞 箚記の贈与に報じた書に出てゐる、平八郎自ら辞職の詩の序附 録(六)に記してある所を以て見れば、彼が三事件に対する明察 快断は一世を聳動せしめたのみならず、彼自身に取つても亦非 常に会心の事であつたらしい、第一の耶蘇教徒逮捕一件は文政 十年四月に起り、三年を費して落着し、第二の奸吏糺弾一件は 同十二年三月に起り、疾雷耳を掩ふの遑あらざる間に結了し、 第三の破戒僧侶遠島一件は同十三年三月に起り、再三訓戒を加 へた後、改悛の状なき者数十名を遠島に処したので、孰も高井 山城守在任中である、山城守は名を実徳といひ、文政三年十一 月山田奉行から大阪町奉行に転じ、能く平八郎の人と為りを見 貫いて大事を托し、平八郎も亦吉凶禍福を度外に措いて山城守 の為に尽し、その転任と共に辞職して仕舞つたのである、而し て以上三件中第一に就いては、挙兵後平八郎を捕縛に向つた西 組与力内山彦次郎の留書に、邪宗門一件書留と題する二冊もの があつて、委細を知り得るが、不幸にして第二第三に就いては 未だ詳密なる史科を発見し得ぬ、尤も第二の件即ち西組与力 ユゲ 弓削新右衛門に詰腹を切らした事の如きは、故に之を隠微の間 に葬つたものと考へらるゝ、天保八年刊行の大阪袖鑑といふ一 種の武鑑に、西組与力中弓削卯八郎の名のある所から推すと、 新右衛門には詰腹を切らせたが、其次第は之を表向にせずして 家名を保存せしめたもので、従つて此一件が明白に解らぬも、 寧ろ当然と言はねばならぬ。

 平八郎在職中の三大功績は、頼山陽や斎藤拙堂の文章にある ばかりでなく、平八郎自身辞職詩并序附録(一)に記してゐる。 之によれば、三事件に対する彼の明察快断は一世を聳動せしめ たのみならず、彼自身に取つても亦非常に会心の事であつたら しい。第一の耶蘇教徒逮捕一件は文政十年四月に起り、三年を 費して落着し、第二の奸吏糺弾一件は同十二年三月に起り、疾 雷耳を掩ふの遑あらざる間に結了し、第三の破戒僧侶遠島一件 は同十三年三月に起り、再三訓戒を加へた後、改悛の状なき者 数十名を遠島に処したので、孰れも高井山城守在任中である。 山城守は名を実徳といひ、文政三年十一月山田奉行から大阪町 奉行に転じ、能く平八郎の人と為りを見貫いて大事を托し、平 八郎も亦吉凶禍福を度外に措いて山城守の為に尽し、その転任 と共に辞職して仕舞つたのである。  以上三件中第一に就いては、挙兵後平八郎を捕縛に向つた西 組与力内山彦次郎の留書に、邪宗門一件書留と題する二冊もの があつて、委細を知り得るが、不幸にして第二第三に就いては                           ユゲ 未だ詳密なる史科を発見せぬ。尤も第二の件即ち西組与力弓削 新右衛門に詰腹を切らした事の如きは、故に之を隠微の間に葬 つたものと考へられる。天保八年刊行の大阪袖鑑に、西組与力 中弓削卯八郎の名を存する所から推すと、新右衛門には詰腹を 切らせたが、その次第は之を表向にせずして家名を保存せしめ たものと思はれる。従つてこの一件が明白に解らぬのは、寧ろ 当然と言はねばならぬ。


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