明治三十五年自分は大阪市史の編纂主任として大阪市役所へ赴任した。
当時自分は年壮気鋭であり、また、始めて大事業を担任した責任感もあ
り、係員諸氏の先頭に立つて勇往奮進した。今日から見れば市史には不
十分の点が多々あるが、一意公務に没頭して他に顧みなかつたことだけ
は、今日猶之を我が子弟に告げて疚しとせざる所である。従つて在阪七
年間の旧文債を償つただけで、新に私に稿を起したものは一つもなかつ
た。
明治四十二年夏一旦業を終へて帰京するに及び、家兄*1の著書「頼朝」
以下、数種を出版した東亜堂伊東芳次郎氏から著述刊行を勧誘せられ、
一議に及ばず本書「大塩平八郎」を草し、同年冬に至つて成つた。
今度創元社の依嘱により、三十余年前の旧稿を再訂するに当り、一章
一部を読む毎に、往時を追懐して悲喜交々臻るものがある。世には多年
苦心の稿本を出版し能はぬ人、又訂正再版を企てゝ成らざるの人の多い
中に、自分の如く未熟の著書を刊行後三十年にして意の欲するまゝに改
訂再刊し得るは至幸至福と言はざるを得ぬ。これが自分の第一の喜であ
る。然し喜の反面にし必ず悲がある。最初本書を執筆するに当り、自分
に多大の援助と同情とを寄せられた諸氏は、過去三十年間に悉く物故せ
られたと記憶する。再訂版成るも、之を坐右に呈してその批評を請ふこ
とはもう出来ぬ。これが自分の最大の悲である。茲に諸氏の芳名を掲げ、
聊か報恩の微志を表す。
打越竹三郎氏 質商、天満成正寺にある大塩家の墓碑について再三示
教せられた。
水野桂雄氏 油商、方円堂と称し、古銭を愛せられた。同翁の紹介に
より同好の亀岡高胤氏より借用した中斎の消息は、彼が在職中のもので
あるだけ、希品と言はざるを得ぬ。
土屋元作氏 大阪朝日新聞社員、中斎一斎間の往復書翰にある間生を、
自分が間長涯と誤記したことを逸早く指示せられた。
関根一郷氏 旧東組与力、中斎が荻野四郎助に与へた書状を額にして間に掛けて居られた。与力同心の生活勤方につき同翁から教へられた所が多い。
今井克復氏 旧天満組惣年寄、史談会速記録所載同翁の談話について
疑を質した所、自分の寓居に来訪せられ、口頭を以て説明を加へられた。
鹿田静七氏 書籍商、今の静七氏の先々代で父を河内屋清七といふ。
河内屋は大阪で有名な書林である。静七氏が自分に割愛された施行引札
一枚は或は旧主家から得られたものであらう。
高木鉄腸堂氏 書籍商、佐藤一斎から洗心堂主宛(天保五年)正月九日
の長文の書状を貸与せられた。これが頗る内容に富んだもので、一斎が
中斎著述の古本大学刮目の序文を謝絶せる一條がある。この書状今何人
の所蔵に帰したか、知りたいものである。
大久保堅磐氏 神宮文庫主管、三男背清康氏をして文庫蔵本の洗心堂
剳記附録を影写し、且つ模装して恵贈せられた。
富岡謙蔵氏 京都帝国大学講師、厳父鉄斎所蔵菊地容斎筆大塩中斎肖
像一幅を示された。謙蔵氏は自分と同庚であるだけ、その死が悼まれる。
菊池晋氏 実業家、旧著発刊後間もなく御所蔵の中斎肖像を撮影手交
せられた。再版の巻頭にあるものがそれである。
昭和一七年五月
幸 田 成 友
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