Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.8.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その49

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  四 辞職 (1)
 改 訂 版




山城守と平
八郎











辞職

平八郎子起の名は今や三都より諸州に達し、隠然として天下を 動かすものがあつた、彼をして此の如く能く驥足を展ぶるを得 せしめたは、町奉行高井山城守で、彼はその信任あつたればこ そ、前記の三大偉績を挙げ得たのである、されば彼自身も「職 は則ち徴賤にして、而も言聴かれ計従はる、大政に関り、衙蠹 を除き、民害を鋤き、僧風を規す、豈に千歳の一遇に非ずや」 と言つて居る、天保元年七月山城守が老を告げて辞職を請ふに 及び、平八郎は之と進退を共にし、隠居して家督を養子格之助 ―同僚西田青太夫弟―に譲り附録(五)、昨夜閑窓夢始静、今朝 心地似僊家、誰知未乏素交者、秋菊東籬潔白花と詠じ、孜々と して講説著述の儒者生活に入つたは、敢て怪むに足らぬ、併し 聞く者は未だ四十歳にも足らざる平八郎が、名望隆々たる時に 当り、決然として権勢の地位を去つたのをば、不思議の眼を以 て迎へたらしい、此際の彼の心事は山陽の辞職の詩並序附録 (六)にあるが、山陽の大塩子起尾張に適くを送る序附録(七) に殊に能く表はれて居る、「野人頼襄あり、独り曰く、子起固 より当に然るべし、然るにあらずんば以て子起と為すに足らず、 吾知る、彼其心壮にして身羸、才通じて志介なり、功名富貴を 喜ぶ者にあらず、喜ぶ所は間に処し書を読むにあり、吾嘗て其 精明を過用し、鋭進折れ易きを戒め、子起深く之を納れたり、 而も已むを得ずして起ち、国家の為に奮つて身を顧みざるのみ、 然らずんば安ぞ能く壮強の年衆望翕属の時に方り、構勢を奪去 して毫も顧恋無からんや、唯然り、故に其任用せらるゝに当り、 請託を呵斥し、苞苴を鞭撻し、凛然之を望む者をして寒氷烈日 の如くならしめ、以てこの効を成すを得たり、故に子起を観る は、その敏に於てせずして其廉に於てし、其精勤に於てせずし て其勇退に於てすべし、聴く者以て然りと為す」とあるは、縦 横の才筆麻姑を以て痒を掻く心知がする。

 平八郎後素の名は今や三都より諸州に達し、隠然として天下 を動かすものがあつた。彼をして此の如く能く驥足を展ぶるを 得せしめたは、町奉行高井山城守で、彼はその信任あつたれば こそ、前記の三大偉績を挙げ得たのである。されば彼自身も 「職は則ち徴賤にして、而も言聴かれ計従はる。大政に関り、 衙蠹を除き、民害を鋤き、僧風を規す。豈に千歳の一遇に非ず や」と言つて居る。天保元年七月山城守が老を告げて辞職を請 ふに及び、平八郎は之と進退を共にせざるを得ずとし、隠居し て家督を養子格之助――同僚西田青太夫弟――に譲り、「昨夜 閑窓夢始静、今朝心地似僊家、誰知未乏素交者、秋菊東籬潔白 花、」と賦した。併し聞く者は平八郎が未だ四十歳にも足らず、 名望隆々たる時に当り、決然として権勢の地位を去つたのをば 不思議の眼を以て迎へたらしい。この際の彼の心事は山陽の大 塩子起尾張に適くを送る序附録(二)に能く表はれて居る。 「野人頼襄あり、独り曰く、子起固より当に然るべし、然るに あらずんば以て子起と為すに足らず。吾知る、彼その心壮にし て身羸、才通じて志介なり、功名富貴を喜ぶ者にあらず、喜ぶ 所は間に処して書を読むにあり。吾嘗てその精明を過用し、鋭 進折れ易きを戒め、子起深く之を納れたり。而も已むを得ずし て起ち、国家の為に奮つて身を顧みざるのみ。然らずんば安ぞ 能く壮強の年衆望翕泉属の時に方り、構勢を奪去して毫も顧恋 無からんや。唯然り、故にその任用せらるゝに当り、請託を呵 斥し、苞苴を鞭撻し、凛然之を望む者をして寒氷烈日の如くな らしめ、以てこの効を成すを得たり。故に子起を観るは、その 敏に於てせずしてその廉に於てし、その精勤に於てせずしてそ の勇退に於てすべし。聴く者以て然りと為す」とあるは、縦横 の才筆麻姑を以て痒を掻く心知がする。


「大塩平八郎」目次/ その48/その50

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