山城守と平
八郎
辞職
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平八郎子起の名は今や三都より諸州に達し、隠然として天下を
動かすものがあつた、彼をして此の如く能く驥足を展ぶるを得
せしめたは、町奉行高井山城守で、彼はその信任あつたればこ
そ、前記の三大偉績を挙げ得たのである、されば彼自身も「職
は則ち徴賤にして、而も言聴かれ計従はる、大政に関り、衙蠹
を除き、民害を鋤き、僧風を規す、豈に千歳の一遇に非ずや」
と言つて居る、天保元年七月山城守が老を告げて辞職を請ふに
及び、平八郎は之と進退を共にし、隠居して家督を養子格之助
―同僚西田青太夫弟―に譲り附録(五)、昨夜閑窓夢始静、今朝
心地似僊家、誰知未乏素交者、秋菊東籬潔白花と詠じ、孜々と
して講説著述の儒者生活に入つたは、敢て怪むに足らぬ、併し
聞く者は未だ四十歳にも足らざる平八郎が、名望隆々たる時に
当り、決然として権勢の地位を去つたのをば、不思議の眼を以
て迎へたらしい、此際の彼の心事は山陽の辞職の詩並序附録
(六)にあるが、山陽の大塩子起尾張に適くを送る序附録(七)
に殊に能く表はれて居る、「野人頼襄あり、独り曰く、子起固
より当に然るべし、然るにあらずんば以て子起と為すに足らず、
吾知る、彼其心壮にして身羸、才通じて志介なり、功名富貴を
喜ぶ者にあらず、喜ぶ所は間に処し書を読むにあり、吾嘗て其
精明を過用し、鋭進折れ易きを戒め、子起深く之を納れたり、
而も已むを得ずして起ち、国家の為に奮つて身を顧みざるのみ、
然らずんば安ぞ能く壮強の年衆望翕属の時に方り、構勢を奪去
して毫も顧恋無からんや、唯然り、故に其任用せらるゝに当り、
請託を呵斥し、苞苴を鞭撻し、凛然之を望む者をして寒氷烈日
の如くならしめ、以てこの効を成すを得たり、故に子起を観る
は、その敏に於てせずして其廉に於てし、其精勤に於てせずし
て其勇退に於てすべし、聴く者以て然りと為す」とあるは、縦
横の才筆麻姑を以て痒を掻く心知がする。
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平八郎後素の名は今や三都より諸州に達し、隠然として天下
を動かすものがあつた。彼をして此の如く能く驥足を展ぶるを
得せしめたは、町奉行高井山城守で、彼はその信任あつたれば
こそ、前記の三大偉績を挙げ得たのである。されば彼自身も
「職は則ち徴賤にして、而も言聴かれ計従はる。大政に関り、
衙蠹を除き、民害を鋤き、僧風を規す。豈に千歳の一遇に非ず
や」と言つて居る。天保元年七月山城守が老を告げて辞職を請
ふに及び、平八郎は之と進退を共にせざるを得ずとし、隠居し
て家督を養子格之助――同僚西田青太夫弟――に譲り、「昨夜
閑窓夢始静、今朝心地似僊家、誰知未乏素交者、秋菊東籬潔白
花、」と賦した。併し聞く者は平八郎が未だ四十歳にも足らず、
名望隆々たる時に当り、決然として権勢の地位を去つたのをば
不思議の眼を以て迎へたらしい。この際の彼の心事は山陽の大
塩子起尾張に適くを送る序附録(二)に能く表はれて居る。
「野人頼襄あり、独り曰く、子起固より当に然るべし、然るに
あらずんば以て子起と為すに足らず。吾知る、彼その心壮にし
て身羸、才通じて志介なり、功名富貴を喜ぶ者にあらず、喜ぶ
所は間に処して書を読むにあり。吾嘗てその精明を過用し、鋭
進折れ易きを戒め、子起深く之を納れたり。而も已むを得ずし
て起ち、国家の為に奮つて身を顧みざるのみ。然らずんば安ぞ
能く壮強の年衆望翕泉属の時に方り、構勢を奪去して毫も顧恋
無からんや。唯然り、故にその任用せらるゝに当り、請託を呵
斥し、苞苴を鞭撻し、凛然之を望む者をして寒氷烈日の如くな
らしめ、以てこの効を成すを得たり。故に子起を観るは、その
敏に於てせずしてその廉に於てし、その精勤に於てせずしてそ
の勇退に於てすべし。聴く者以て然りと為す」とあるは、縦横
の才筆麻姑を以て痒を掻く心知がする。 |