一党の処刑
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其処で評定所一座は同年七月命に応じて評議書を差出し、十二
月五日大阪町奉行高井山城守より一同に仕置を申渡し、一件落
着を告げた、貢・きぬ・さの・桂蔵・平蔵・顕蔵は大阪三郷町
中引廻の上磔となり、さの・きぬ・桂蔵・顕蔵四名は病死につ
き塩詰の死骸を右の如くに取扱ひ、さのゝ手先となりし新助・
八重・勘蔵は吟味中病死、勘蔵女房ときは死罪、少弐・新太郎・
喜之進は牢舎申付くべき所孰れも病死、又政助・熊蔵は病死に
つき其咎に及ばず、水野軍記糸屋わさは墳墓破壊、軍記実子蒔
次郎・わさ養女いと・とき・貢養子掃部・桂蔵女房ふき・平蔵
女房むつは牢舎、紅葉屋甚兵衛は手鎖五十日、但し蒔次郎・ふ
きは申渡以前病死し、又軍記の遣骸は焼棄故申渡書のみに終り、
軍記以下主犯者の菩提寺住持は退院、組寺は五十日の逼塞、彼
等の住居した町村の庄屋年寄は役儀取放の上過料、家主五人組
も亦過料を科せられたが、其他は今省略する、要するに本件は
評定所に達せられた口上書に、「切支丹宗門一件御仕置当之儀、
御定も無之、先例とても碇と難相分事ニ候間、大概厳重なる方え
附評議有之可然」とある如く、一に重きに従つて処断せられた
ものと見える、平八郎が三大功績中邪教徒逮捕糺明の事は特に
著名であるから、充分研究を加へ、記事も案外に長くなつたが、
其真想は右の如く実は甚だ曖味なる一件であつた。
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そこで評定所一座は同年七月命に応じて評議書を差出し、十
二月五日大阪町奉行高井山城守より一同に仕置を申渡し、一件
落着を告げた。貢・きぬ・さの・桂蔵・平蔵・顕蔵は大阪三郷
町中引廻の上磔となり、さの・きぬ・桂蔵・顕蔵四名は病死に
つき塩詰の死骸を右の如くに取扱ひ、さのの手先となつた新助・
八重・勘蔵は吟味中病死、勘蔵女房ときは死罪、少弐・新太郎・
喜之進は牢舎申付くべき所孰れも病死、政助熊減は病死につき
その咎に及ばず、水野軍記糸屋わさは墳墓破壊、軍記実子蒔次
郎・わさ養女いと・とき・貢養子掃部・桂蔵女房ふき・平蔵女
房むつは牢舎、紅葉屋甚兵衛は手鎖五十日、但し蒔次郎・ふき
は申渡以前病死し、又軍記の遣骸は焼棄のこととて申渡書のみ
に終り、軍記以下主犯者の菩提寺住持は退院、組寺は五十日の
逼塞、彼等の住居した町村の庄屋年寄は役儀取放の上過料、家
主五人組も亦過料に処せられたが、その他は省略する。要する
に本件は評定所に達せられた口上書に、「切支丹宗門一件御仕
置当之儀、御定も無之、先例とても碇と難相分事ニ候間、大概
厳重なる方え附評議有之可然」とあるが如く、一に重きに従つ
て処断せられたものと見える。平八郎が三大功績中邪教徒逮捕
糺明の事は特に著名であるから、充分研究を加へ、記事も案外
に長くなつたが、その真相は右の如く実は甚だ曖味なる一件で
あつた。
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