Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.7.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その48

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  三 三大功績 下 (19)
 改 訂 版




一党の処刑

其処で評定所一座は同年七月命に応じて評議書を差出し、十二 月五日大阪町奉行高井山城守より一同に仕置を申渡し、一件落 着を告げた、貢・きぬ・さの・桂蔵・平蔵・顕蔵は大阪三郷町 中引廻の上磔となり、さの・きぬ・桂蔵・顕蔵四名は病死につ き塩詰の死骸を右の如くに取扱ひ、さのゝ手先となりし新助・ 八重・勘蔵は吟味中病死、勘蔵女房ときは死罪、少弐・新太郎・ 喜之進は牢舎申付くべき所孰れも病死、又政助・熊蔵は病死に つき其咎に及ばず、水野軍記糸屋わさは墳墓破壊、軍記実子蒔 次郎・わさ養女いと・とき・貢養子掃部・桂蔵女房ふき・平蔵 女房むつは牢舎、紅葉屋甚兵衛は手鎖五十日、但し蒔次郎・ふ きは申渡以前病死し、又軍記の遣骸は焼棄故申渡書のみに終り、 軍記以下主犯者の菩提寺住持は退院、組寺は五十日の逼塞、彼 等の住居した町村の庄屋年寄は役儀取放の上過料、家主五人組 も亦過料を科せられたが、其他は今省略する、要するに本件は 評定所に達せられた口上書に、「切支丹宗門一件御仕置当之儀、 御定も無之、先例とても碇と難相分事ニ候間、大概厳重なる方え 附評議有之可然」とある如く、一に重きに従つて処断せられた ものと見える、平八郎が三大功績中邪教徒逮捕糺明の事は特に 著名であるから、充分研究を加へ、記事も案外に長くなつたが、 其真想は右の如く実は甚だ曖味なる一件であつた。

 そこで評定所一座は同年七月命に応じて評議書を差出し、十 二月五日大阪町奉行高井山城守より一同に仕置を申渡し、一件 落着を告げた。貢・きぬ・さの・桂蔵・平蔵・顕蔵は大阪三郷 町中引廻の上磔となり、さの・きぬ・桂蔵・顕蔵四名は病死に つき塩詰の死骸を右の如くに取扱ひ、さのの手先となつた新助・ 八重・勘蔵は吟味中病死、勘蔵女房ときは死罪、少弐・新太郎・ 喜之進は牢舎申付くべき所孰れも病死、政助熊減は病死につき その咎に及ばず、水野軍記糸屋わさは墳墓破壊、軍記実子蒔次 郎・わさ養女いと・とき・貢養子掃部・桂蔵女房ふき・平蔵女 房むつは牢舎、紅葉屋甚兵衛は手鎖五十日、但し蒔次郎・ふき は申渡以前病死し、又軍記の遣骸は焼棄のこととて申渡書のみ に終り、軍記以下主犯者の菩提寺住持は退院、組寺は五十日の 逼塞、彼等の住居した町村の庄屋年寄は役儀取放の上過料、家 主五人組も亦過料に処せられたが、その他は省略する。要する に本件は評定所に達せられた口上書に、「切支丹宗門一件御仕 置当之儀、御定も無之、先例とても碇と難相分事ニ候間、大概 厳重なる方え附評議有之可然」とあるが如く、一に重きに従つ て処断せられたものと見える。平八郎が三大功績中邪教徒逮捕 糺明の事は特に著名であるから、充分研究を加へ、記事も案外 に長くなつたが、その真相は右の如く実は甚だ曖味なる一件で あつた。

  


「浮世の有様 文政十二年切支丹始末」その7


「大塩平八郎」目次/ その47/その49

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