江戸出仕一
件
其批評
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然るに此処に一條の話が史談会速記録第六号に出てゐる、談話
者は天満組の旧惣年寄今井克復翁で、それによると、平八郎は
江戸へ出て一廉の役人に取用ゐられたい心願で、兼々其趣を山
城守に依頼し、山城守に参府の命が下つたとなるや、強ひて之
を頼込んだ、其時山城守は江戸へ出やうとて容易に今日は望通
に往かぬ次第を話し、実際江戸に出る心なら一旦与力を退き、
ゴケニン
責めて江戸にて御家人の株に入り、身分を替へた上でなければ
昇進の見込は立たぬ、是迄与力の勤方に於ては十分勤功もある
こと故、此方参府後は直に退職せよと諭したので、新任の町奉
行曾根日向守着阪の節退身した、さて山城守は江戸へ罷越すと、
隠居役ともいふべき西丸留守居を命ぜられ、平八郎抜擢の周旋
は出来ず、又周旋しやうとしても容易で無いので、其後平八郎
が江戸へ尋ねて来た際に周旋を謝絶して仕舞ひ、天保三四年頃
再度江戸へ来た時は面会もし無かつたとある、諸組与力には譜
代もあれど、大阪町奉行組与力は御抱席で、譜代とは大に格合
が違ふ、縦令譜代席となつても、更に進んで御目見以上となり、
一廉の役人になるのは容易で無い、前々よりの役順によつて昇
進するのが当時の風で、如何に秀才でも能吏でも、遠国から呼
出されて時めくやうな機運は決して無かつた、山城守が平八郎
に諭した江戸出仕困難の趣旨は、恐くは右の如きものであつた
らうが、平八郎とてそれ位の事は心得てゐたであらう、心得て
居つゝら猶之を山城守に迫つたとは信じ難い話である、
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然るに意外な話が『史談会速記録』第六号に出てゐる。談話
者は旧天満組の惣年寄今井克復翁で、それによると、平八郎は
以前から江戸へ出て一廉の役人に取用ひられたい心願で、その
趣は山城守に打明けてある。今度山城守に参府の命が下つたと
なるや、彼は強ひて之を依頼した所、山城守の返事に、実際江
ゴケニン
戸に出る心なら一旦与力を退き、責めて江戸にて御家人の株に
入り、身分を替へた上でなければ昇進の見込は立たぬ。是迄与
力の勤方においては充分勤功もあること故、拙者参府後は直様
退職せよとあつたので、平八郎は新任の町奉行曾根日向守着阪
の節退身した。さて山城守は江戸へ帰ると、隠居役ともいふべ
き西丸留守居を命ぜられ、平八郎抜擢の周旋は出来ず、又周旋
しようとしても容易で無いので、その後平八郎が江戸へ尋ねて
来た際に周旋を謝絶して仕舞ひ、天保三四年頃再度江戸へ来た
時は面会もし無かつたとある。与力の身分にも色々あるが、大
阪町奉行組与力は御抱席で、譜代とは大いに格式が違ふ。仮令
譜代席になつても、更に進んで御目見以上となり、一廉の役人
になるのは容易で無い。前々よりの役順によつて昇進するのが
当時の風で、如何に秀才でも能吏でも、遠国から呼出されて俄
に時めくやうな機運は決して無かつた。山城守が平八郎に諭し
た江戸出仕困難の趣旨は、恐らくは右の如きものであつたらう
が、平八郎とてそれ位の事は心得てゐたであらう。心得て居な
がら猶それを山城守に迫つたとは信じ難い話である。 |