Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.8.8

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その50

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  四 辞職 (2)
 改 訂 版


江戸出仕一
件






















其批評 

然るに此処に一條の話が史談会速記録第六号に出てゐる、談話 者は天満組の旧惣年寄今井克復翁で、それによると、平八郎は 江戸へ出て一廉の役人に取用ゐられたい心願で、兼々其趣を山 城守に依頼し、山城守に参府の命が下つたとなるや、強ひて之 を頼込んだ、其時山城守は江戸へ出やうとて容易に今日は望通 に往かぬ次第を話し、実際江戸に出る心なら一旦与力を退き、        ゴケニン 責めて江戸にて御家人の株に入り、身分を替へた上でなければ 昇進の見込は立たぬ、是迄与力の勤方に於ては十分勤功もある こと故、此方参府後は直に退職せよと諭したので、新任の町奉 行曾根日向守着阪の節退身した、さて山城守は江戸へ罷越すと、 隠居役ともいふべき西丸留守居を命ぜられ、平八郎抜擢の周旋 は出来ず、又周旋しやうとしても容易で無いので、其後平八郎 が江戸へ尋ねて来た際に周旋を謝絶して仕舞ひ、天保三四年頃 再度江戸へ来た時は面会もし無かつたとある、諸組与力には譜 代もあれど、大阪町奉行組与力は御抱席で、譜代とは大に格合 が違ふ、縦令譜代席となつても、更に進んで御目見以上となり、 一廉の役人になるのは容易で無い、前々よりの役順によつて昇 進するのが当時の風で、如何に秀才でも能吏でも、遠国から呼 出されて時めくやうな機運は決して無かつた、山城守が平八郎 に諭した江戸出仕困難の趣旨は、恐くは右の如きものであつた らうが、平八郎とてそれ位の事は心得てゐたであらう、心得て 居つゝら猶之を山城守に迫つたとは信じ難い話である、

 然るに意外な話が『史談会速記録』第六号に出てゐる。談話 者は旧天満組の惣年寄今井克復翁で、それによると、平八郎は 以前から江戸へ出て一廉の役人に取用ひられたい心願で、その 趣は山城守に打明けてある。今度山城守に参府の命が下つたと なるや、彼は強ひて之を依頼した所、山城守の返事に、実際江                       ゴケニン 戸に出る心なら一旦与力を退き、責めて江戸にて御家人の株に 入り、身分を替へた上でなければ昇進の見込は立たぬ。是迄与 力の勤方においては充分勤功もあること故、拙者参府後は直様 退職せよとあつたので、平八郎は新任の町奉行曾根日向守着阪 の節退身した。さて山城守は江戸へ帰ると、隠居役ともいふべ き西丸留守居を命ぜられ、平八郎抜擢の周旋は出来ず、又周旋 しようとしても容易で無いので、その後平八郎が江戸へ尋ねて 来た際に周旋を謝絶して仕舞ひ、天保三四年頃再度江戸へ来た 時は面会もし無かつたとある。与力の身分にも色々あるが、大 阪町奉行組与力は御抱席で、譜代とは大いに格式が違ふ。仮令 譜代席になつても、更に進んで御目見以上となり、一廉の役人 になるのは容易で無い。前々よりの役順によつて昇進するのが 当時の風で、如何に秀才でも能吏でも、遠国から呼出されて俄 に時めくやうな機運は決して無かつた。山城守が平八郎に諭し た江戸出仕困難の趣旨は、恐らくは右の如きものであつたらう が、平八郎とてそれ位の事は心得てゐたであらう。心得て居な がら猶それを山城守に迫つたとは信じ難い話である。


相蘇一弘「大塩平八郎の出府と「猟官運動」について
今井克復談話


「大塩平八郎」目次/ その49/その51

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