Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.8.15

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その51

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  四 辞職 (3)
 改 訂 版


今井官之助








窪田英治





































匹田竹翁

今井氏は若年の頃官之助といひ、大塩乱とは関係深く、与力内 山彦次郎が平八郎父子を召捕に向つた砌、消防人足を引連れて 附近を警戒し、父子の焼爛れた死骸を目撃された位であるから、 史談会に於ける同翁の談話は大に興味に富み、在来の史料に見 えぬ個條もあれど、江戸出仕の一條は翁が懇意にせる隣家今井 氏の家は天満の今井町にありの忰窪田英治から年経て後聞かれ た話で、英治は幼年より大塩邸に寄宿し、平八郎の初度の江戸 行には従者をしたといふが、此話は前後矛盾し、信用すべき程 度は極て低い、吾人は年経ての三字に注目せねばならぬ、歳月 の経過は事実の添加或は虚構を生ずる例に乏しく無いのである、 尚英治の話として、平八郎は帰阪の途中富士山に登り、裾野で は恰も発狂の如く、陣屋を敷くには彼辺が宜からう、此処が宜 からうと口走つたと、同翁の談話速記録中にある、成程平八郎 晩年の言行には聊か常軌を外れてゐるやうな点も見えるが、第 一回の江戸行の帰途―第二回を天保三四とすれば天保元年また は二年の出来事なるべき―に於て、既に此の如くあつたか疑し い、況んや彼が富士山に登つたのは天保四年の秋で、英治の言 ふ如く第一回江戸行の帰途では無く、而も平八郎が一生を通じ て果して江戸に往つた事があるか、夫さへ確実の証跡は無いの である、天保四年彼が佐藤一斎に与へた消息附録(八)に、彼 は嘗て愛日楼集を読んで一方ならず一斎を敬慕したが、在職中 は吏役簿書に束縛せられ、寸歩尺行と雖も恣にし難く、又辞職 家居後は私讎州の内外に充斥し、蠖屈して東行の機を俟つたが 今に其時なく、一斎は年既に六十を踰え、自分はまだ四十一な がら、孱体多病、終に遭遇の期なきを保せず、と言つて居る所 を以て見れば、平八郎の江戸行は覚束ない説である、反省雑誌 第十三年第一号及第三号に連載せられた平八郎の門人匹田竹翁 の洗心洞余瀝によると、英治の所説とは全く相違し、先生は再 三江戸から御召はあつたが、槍を立てさして歩行廻るのは真平 御免だと言はれたとある、彼の辞職の詩並に序から考へても、 又彼が同僚荻野四郎助に与へた書中附録(一五)に、「其働成 就之後、其功ニ依而褒美・官職・知行抔貰候と、自分一家の栄 を相喜相慶し、実心其主家天下之事を不思勝成ルものに御座候、 是義何レも只今ニ始候事には無之、古よりの流弊ニ候、僕其義 を嘆息いたし候付、先年より追々其私情を去ル工夫に力を尽し、 下賤ながら心付候事者、身並家をも不顧、寸心一杯に尽し、誠 に危事共相犯し候、爾来或人に被悪、或人に被妬被誹、或頭の 耳に逆候事共諌諍いたし候義、中ニ者貴兄も御存有之候通にて」 とある所から考へても、江戸出仕一條は全く信じられぬのであ る。


    ○大塩平八郎の宗家は中京にあり、名古屋白壁町なる  大塩氏は則ち其れにして、此には平八郎が築きたる  書斎猶存す、 ○書斎は質素なる建て方にして、二室より成り、材木  も亦普通にして、何等数奇を凝らせる跡ある無し、 ○書斎の西と南とは平庭にして、入口は西南隅にあり、  北と東とは元と泉水に造り掛けになり在りしと伝ふ  れども、今は泉水涸れ、庭園は竹籔と草蓬々たる畑  とのみ也、 ○書斎の座敷は六畳にして、廻り椽付き也、則ち平八  郎の居室に当てたるもの、次室は三畳にして、従者  則ち門人の詰所なりしなるべし、 ○本家は随分手広の家にして、平八郎滞留の為に態々  増築を必要とするほどにもあらず、然るに彼は殊に  金を贈りて離れ座敷の新築を請へる真意果して如何、 ○彼の書中に、『私拝借の御裏手御書斎御立広めは、              ○○ ○○ ○○ ○○  随分質素に成し可被下候、古き木抔にてザツと成し  置可被下候』            (横山健堂氏中京第二十七)

今井氏は若年の頃官之助といひ、大塩乱とは関係深く、与力内 山彦次郎が平八郎父子を召捕に向つた砌、消防人足を引連れて 附近を警戒し、父子の焼爛れた死骸を目撃された位であるから、 史談会に於ける同翁の談話は頗る興味に富み、在来の史料に見 えない個條も彼是あるが、江戸出仕の一條は何分信用しかねる。 今井家は代々天満の今井町に住し、翁はこの話を懇意にせる隣             、、、 家の医者の忰窪田英治から年経て後聞かれた。英治は幼年から 大塩邸に寄宿し、平八郎の初度の江戸行には従者をしたといは れるが、吾人は年経ての三字に注目せねばならぬ、歳月の経過 は事実の添加或は虚構を生ずる例に乏しく無いからである。  平八郎の初度の江戸行といふのは何年のことであるか。今井 翁の談話速記録中に英治の話として、平八郎は帰阪の途中富士 山に登り、裾野では恰も発狂の如く、陣屋を敷くには彼辺が宜 からう、此処が宜からうと口走つたとある。成程平八郎の言行 には聊か常軌を外れてゐるやうな点も時折見えるが、彼が富士 山に登つたのは天保四年の秋で、それまでに彼が江戸へ往つた といふ確実な証跡は無い。否それと反対に天保四年までに江戸 へ行かなかつたといふ証拠がある。即ち同年彼が佐藤一斎に与 へた尺牘附録(三)に、彼は嘗て愛日楼集を読んで一方ならず 一斎を敬慕したが、在職中は吏役簿書に束縛せられ、寸歩尺行 と雖も恣にし難く、また辞職家居後は私讎州の内外に充斥し、 蠖屈して東行の機を俟つたが終にその時なく、一斎は既に年六 十を踰え、自分はまだ四十一ながら、孱体多病、終に遭遇の期 なきを保せずと言つて居る。平八郎の江戸行は誤伝と言はざる を得ない説である。反省雑誌第十三年第一号及び第三号に連載 せられた平八郎の門人匹田竹翁の洗心洞余歴によると、英治の 所説とは全く相違し、先生は再三江戸から御召はあつたが、槍 を立てさして歩行廻るのは真平御免だと言はれたとある。平八 郎が門人荻野四郎助に与へた書面附録(四)に、「其働成就之 後、其功に依りて褒美・官職・知行杯貰候と、自分一家の栄を 相喜相慶し、実心其主家天下之事を不思勝成ルものに御座候。 是義何レも只今に始候事には無之、古よりの流弊に候。僕其義 を嘆息いたし候付、先年より追々其私情を去工夫に力を尽し、 下賤ながら心付候事者、身並家をも不顧、寸心一杯に尽し、誠 に危事共相犯し候。爾来或人に被悪被忌、或人に被妬被誹、或 頭の耳に逆候事共諌諍いたし候義、中には者貴兄も御存有之候 通にて」とある所から考へても、江戸出仕一條は全く信じられ ぬのである。


「大塩平八郎」目次/ その50/その52

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ