Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.8.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その52

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  一 研学 (1)
 改 訂 版


関西の学者














志望三変

平八郎字は中斎また洗心洞主人と号し、日本の陽明学者として 第一流中に位し、年代の順を以て言へば、中斎の名は必ず藤樹・ 蕃山、執斎の次に出で、而も是等諸子は皆関西に名を成した者 である、否独り陽明学者のみならず、三語の三浦梅園といひ、 出定後語の著者富永仲基といひ、凡そ一流一派の見解を樹てた 学者は多く関西に起り、関東の学者が概ね朱学の範囲内に局促 として、一生を四書五経の註解に終つたとは頗る趣を異にして ゐる。 中斎問学の次第は一斎に与へた消息附録(八)に詳である、彼 が志は前後三び変つた。十五歳の時家譜を読み、慨然として功 名気節を以て祖先の志を継がんと欲したが第一変、年二十を過 ぎ、儒に就いて問学し、襲取外求の功を以て心中の病を去らん と欲したが第二変、困苦独学誠意を以て的となし、良知を致す を以て工と為すに至つたが第三変であつた、下に掲ぐる消息の 一節は、彼が年少志を立てしも、父母倶に歿して早く祖父の職 を承くるに至りし條に連続し、就職以来「日に接する所は、赭 衣罪囚に非ずんば、必ず府史胥徒のみ、故に耳目聞見する所、 栄利銭穀の談、号泣愁寃の事にならざるはなく、文法惟これ熟           サキ し、條例惟これ暗ず、向の志は立てんと欲して立つる能はず、 依違因循年二十を踰えたり、吏人未だ甞て学問する者あらず、 故に過失ありと雖も、益友の之を誡むる者なく、其勢ひ欺罔・ 非僻・驕慢・放肆の病を発せざるを得ざるなり、而も是非の心 無くんば人に非ず、竊に自ら心に問へば、則ち作止語黙、罪を 理に獲るもの盖し夥し、要は笞杖下に在る赭衣と一間のみ、而 も羞悪の心なくんば亦人に非ず、彼の罪を治めんには、則ち己 が病を治めざる可らざるなり、

 平八郎字は子起、初め連斎また中軒と号し、後中斎に改め、 塾を洗心洞と称す。日本の陽明学者として第一流中に位し、年 代の順を以て言へば、中斎の名は必ず藤樹・蕃山・執斎の次に 出で来る。  中斎問学の次第は一斎に与へた書牘(附録三)に詳である。 彼が志は前後三たび変はつた。十五歳の時家譜を読み、慨然と して功名気節を以て祖先の志を継がんと欲したが第一変。年二 十を過ぎ、儒に就いて問学し、襲取外求の功を以て心中の病を 去らんと欲したが第二変。困苦独学誠意を以て的となし、良知 を致すを以て工と為すに至つたが第三変であつた。下に掲ぐる 一節は、右書牘中彼が年少志を立てたが、父母倶に歿して早く 祖父の職を承くるに至りし條に連続し、就職以来「日に接する 所は、赭衣罪囚に非ずんば、必ず府史胥徒のみ。故に耳目聞見 する所、栄利銭穀の談、号泣愁寃の事に与らざるはなく、文法               サキ 惟これ熟し、條例惟これ諳ず。向の志は立てんと欲して立つる 能はず、依違因循年二十を踰えたり。吏人未だ甞て学問する者 あらず。故に過失ありと雖も、益友の之を誡る者なく、其勢ひ 欺罔・非僻・驕慢・放肆の病を発せざるを得ざるなり。而も是 非の心無くんば人に非ず、竊に自ら心に問へば、則ち作止語黙、 罪を理に獲るもの盖し夥し。要は笞杖下に在る赭衣と一間のみ。 而も羞悪の心なくんば亦人に非ず、彼の罪を治めんには、則ち 己が病を治めざる可からざるなり。


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