関西の学者
志望三変
|
平八郎字は中斎また洗心洞主人と号し、日本の陽明学者として
第一流中に位し、年代の順を以て言へば、中斎の名は必ず藤樹・
蕃山、執斎の次に出で、而も是等諸子は皆関西に名を成した者
である、否独り陽明学者のみならず、三語の三浦梅園といひ、
出定後語の著者富永仲基といひ、凡そ一流一派の見解を樹てた
学者は多く関西に起り、関東の学者が概ね朱学の範囲内に局促
として、一生を四書五経の註解に終つたとは頗る趣を異にして
ゐる。
中斎問学の次第は一斎に与へた消息附録(八)に詳である、彼
が志は前後三び変つた。十五歳の時家譜を読み、慨然として功
名気節を以て祖先の志を継がんと欲したが第一変、年二十を過
ぎ、儒に就いて問学し、襲取外求の功を以て心中の病を去らん
と欲したが第二変、困苦独学誠意を以て的となし、良知を致す
を以て工と為すに至つたが第三変であつた、下に掲ぐる消息の
一節は、彼が年少志を立てしも、父母倶に歿して早く祖父の職
を承くるに至りし條に連続し、就職以来「日に接する所は、赭
衣罪囚に非ずんば、必ず府史胥徒のみ、故に耳目聞見する所、
栄利銭穀の談、号泣愁寃の事にならざるはなく、文法惟これ熟
サキ
し、條例惟これ暗ず、向の志は立てんと欲して立つる能はず、
依違因循年二十を踰えたり、吏人未だ甞て学問する者あらず、
故に過失ありと雖も、益友の之を誡むる者なく、其勢ひ欺罔・
非僻・驕慢・放肆の病を発せざるを得ざるなり、而も是非の心
無くんば人に非ず、竊に自ら心に問へば、則ち作止語黙、罪を
理に獲るもの盖し夥し、要は笞杖下に在る赭衣と一間のみ、而
も羞悪の心なくんば亦人に非ず、彼の罪を治めんには、則ち己
が病を治めざる可らざるなり、
|
平八郎字は子起、初め連斎また中軒と号し、後中斎に改め、
塾を洗心洞と称す。日本の陽明学者として第一流中に位し、年
代の順を以て言へば、中斎の名は必ず藤樹・蕃山・執斎の次に
出で来る。
中斎問学の次第は一斎に与へた書牘(附録三)に詳である。
彼が志は前後三たび変はつた。十五歳の時家譜を読み、慨然と
して功名気節を以て祖先の志を継がんと欲したが第一変。年二
十を過ぎ、儒に就いて問学し、襲取外求の功を以て心中の病を
去らんと欲したが第二変。困苦独学誠意を以て的となし、良知
を致すを以て工と為すに至つたが第三変であつた。下に掲ぐる
一節は、右書牘中彼が年少志を立てたが、父母倶に歿して早く
祖父の職を承くるに至りし條に連続し、就職以来「日に接する
所は、赭衣罪囚に非ずんば、必ず府史胥徒のみ。故に耳目聞見
する所、栄利銭穀の談、号泣愁寃の事に与らざるはなく、文法
サキ
惟これ熟し、條例惟これ諳ず。向の志は立てんと欲して立つる
能はず、依違因循年二十を踰えたり。吏人未だ甞て学問する者
あらず。故に過失ありと雖も、益友の之を誡る者なく、其勢ひ
欺罔・非僻・驕慢・放肆の病を発せざるを得ざるなり。而も是
非の心無くんば人に非ず、竊に自ら心に問へば、則ち作止語黙、
罪を理に獲るもの盖し夥し。要は笞杖下に在る赭衣と一間のみ。
而も羞悪の心なくんば亦人に非ず、彼の罪を治めんには、則ち
己が病を治めざる可からざるなり。
|