Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.8.29

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その53

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  一 研学 (2)
 改 訂 版


問学














独学














古本大学と
伝習録

病を治むる奈何、常に儒に従ひ、書を読み埋を窮めて而して後 愈ゆべし、故に儒に就いて問学す、是に於てか夫の功名気節の 志乃ち自ら一変す、其時の志は則ち猶襲取外求の功を以て、病 去り心正しからんを望み、未だ軽俊の患を免る能はず、乃ち崔 子鐘少年の態と適々相同じ、材及ぶと謂ふにあらざるなり、夫 れ儒の授くる所、訓詁にあらずんば必ず詩章なり、僕暇を偸み て之を慣習す、故に其臼に陥るを覚らずして自ら之と化せり、 是を以て聞見辞弁、非を掩ひ言を飾るの具、既に心口に在り、 而も侈然として忌憚する所なく、病却て前日より深きに似たり、 顧れば其志と径庭す、悔無からんや、此に於て退いて独り学び、 困苦辛酸殆ど名状すべからず、天祐に因つて舶来の寧陵呻吟語 を購ふを得たり、此も亦呂子病中の言なり、熟読玩味、道それ 焉に在らずや、恍然として覚る所あるが如し、所謂長鍼遠痞を 却るに庶く、未だ全く正心の人たる能はずと雖も、然も自ら幸 にして赭衣一間の罪を脱しぬ、是より又寧陵の淵源する所を究 め、其亦姚江より来るを知れり。我邦藤樹蕃山二子及三輪氏の 後、関以西良知の学既に絶ゆ、故に一人の之を講ずる無し、僕 竊に復三輪氏翻刻する所の古本大学及び伝習録坊本を蕪廃中に 出し、更に稍々功を心性に用ふるを知り、且つ以て諸を人に喩 す、是に於て夫の襲取外求の志又既に一変す、而して僕の志は 遂に誠意を以て的と為し、良知を致すを以て工と為すにあり、 爾来前を瞻後を顧みず、直前勇往、只だ力を現在の吏務に費す のみ、是を以て君恩に報じ、祖先に報い、古聖賢の教に報い、 敢て人に譲らざるなり、意はざりき虚名州県に満たんとは、因 て思へらく、未だ実得あらずして虚名此の如し、是れ乃ち造物 者の忌む所と、故に決然として致仕帰休す、徒に人禍を恐るゝ にあらざるなり、是時僕年三十又八」とある、之によれば中斎 が学に志したは丁年以後で、江戸遊学の虚説なるは勿論、林述 斎を師としたことも誤伝であるが、其当初の師は遂に何人であ るか解らぬ、越智高洲である、篠崎三島である、イヤ中井抑楼 であるといふが、いづれも想像に過ぎない、又呂新吾王陽明を 研究するに至つたは何歳の時であるか、弟子を集めて経を説い たは何歳の時からであるか、共に不明であるが、洗心洞学舎の 東掲西掲は文政八年正月十四日即ち彼が三十三歳の時に認めた ものである所から推すと、恐くは此時既に陽明学に於て多大の 研鑚を積み、また若干の門弟を有してゐたのであらう。

病を治むる奈何、常に儒に従ひ、書を読み埋を窮めて而して後 愈ゆべし。故に儒に就いて問学す。是に於てか夫の功名気節の 志乃ち自ら一変す。其時の志は則ち猶襲取外求の功を以て、病 去り心正しからんを望み、軽俊の患を免る能はず、乃ち崔子鐘 少年の態と適々相同じ、材及ぶと謂ふにあらざるなり。夫れ儒 の授くる所、訓詁にあらずんば必ず詩章なり。僕暇を偸みて之 を慣習す、故に其臼に陥るを覚らずして自ら之と化せり。是 を以て聞見辞弁、非を掩ひ言を飾るの具、既に心口に在り、而 も侈然として忌憚する所なく、病却て前日より深きに似たり。 顧れば其志と徑庭す、能く悔無からんや。此に於て退いて独り 学び、困苦辛酸殆ど名状すべからず、天祐に因つて舶来の寧陵 呻吟語を購ふを得たり。此も亦呂子病中の言なり。熟読玩味、 道それ焉に在らずや、恍然として覚る所あるが如し。所謂長鍼 遠痞を去るに庶く、未だ全く正心の人たる能はずと雖も、然も 自ら幸にして赭衣一間の罪を脱しぬ。是より又寧陵の淵源する 所を究め、乃ち其亦姚江より来るを知れり。我邦藤樹蕃山二子 及三輪氏の後、関以西良知の学既に絶ゆ。故に一人の之を講ず る無し。僕竊に復三輪氏翻刻する所の古本大学及び伝習録坊本 を蕪廃中に出し、更に稍々功を心性に用ふるを知り、且つ以て 諸を人に喩す。是に於て夫の襲取外求の志又既に一変す。而し て僕の志は遂に誠意を以て的と為し、良知を致すを以て工と為 すにあり。爾来前を瞻て後を顧みず、直前勇往、只だ力を現在 の吏務に尽すのみ。是を以て君恩に報じ、祖先に報い、古聖賢 の教に報い、敢て人に譲らざるなり。意はざりき虚名州県に満 たんとは。因て思へらく、未だ実得あらずして虚名此の如し、 是れ乃ち造物者の忌む所と。故に決然として致仕帰休す。徒に 人禍を恐るゝにあらざるなり。是時僕年三十又八」とある。之 によれば中斎が学に志したは丁年以後で、江戸遊学の虚説なる は勿論、林述斎を師としたことも誤伝である。  中斎の当初の師は何人であるか。越智高洲である、篠崎三島 小竹の父である、イヤ鈴木撫泉であるといふが、いづれも確証 は無い。呂新吾王陽明を研究するに至つたは何歳の時からであ るか。それも亦不明だが、彼が呂新吾の呻吟語を入手閲読した 時、彼自身が病気であつたため、「此も亦呂子病中の言なり」 と同情したに相違ない。


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