肺病
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中斎が「此に於て退いて独り学び、困苦辛酸殆ど名状すべから
ず」、と言つたのは、訓詁詩章に満足せず、如何にして我心境
を澄徹ならしめ、道徳を闡明して天理を存しやうかとの苦心を
主として指すのであらうが、其間彼は実に肺病に罹り、死に瀕
すること再三に及び、また目上の親戚を失ひ、骨を刺す悲哀は
大に病勢を増進せしめたとある、平八郎は親戚上の関係には極
て薄倖な人で、父母には七歳で別れ、翌年弟を失ひ、祖父には
廿六歳で別れ、今度は祖母名不詳と外祖氏名不詳とに離れたの
であつたが、中斎自身の大患は天佑によつて恢復した、挙兵後
全国到る所に触廻された平八郎の人相書によると、顔細長く色
白き方、目張強き方、眉毛細く濃き方、額開き月代薄き方、耳
鼻背格好常体とあるから、如何にも癇癖の強い肺病的の人と想
像が出来る、門人疋田竹翁の話に、先生は中々美男で、少し瘠
ぎすですが、身長五尺五六寸、凛とした風采はそりや立派なも
ので、髷は短く結つて居られた。色は白い方で、眼はあまり太
くなく、稍釣気味で、少し怒を含れた時などは、何様な者でも
びりつきましたねとあるのは、身長だけを除き人相書とよく符
合し、如何にもさうであつたかと想はれる、
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■肺を患ふ
中斎が肺を患ひて、再三死に瀕し、祖母及び外祖の不幸に会
して病勢益々厚かつたことは、文政十一年十一月陽明先生三百
年忌の祭典を洗心洞の学堂に行つた時の祭文に出てゐる。して
見れば中斎の病患は一朝一夕のものとは思はれない。文政九年
名古屋の宗家に宛て養子の相談に及んだ手紙の冒頭に、先年病
気につき未だ老年といふにはあらざれど、退役の宿願を果した
く、実子これ無きにつき御子息の中を養子に迎へたき旨、御内
談に及んだ。然る処自分壮年故養子の件は差急ぐに及ばず、寛
々養生せよとの御来諭にて、そのままに打過ぎ、爾来余程の年
月を経たるも兎角不快勝で、勤仕も十分に出来ず、最早三十四
歳になりながら実子も無之云々とあるから、最初養子の話を持
出したは文政九年より少くも若干年前で、その頃已に中斎は病
を獲て居つたのであらう。
■人相書
挙兵後全国到る所に触廻された平八郎の人相書によると、顔細
長く色白き方、目張強き方、眉毛細く濃き方、額開き月代薄き
方、耳鼻背格好常体とあるから、如何にも癇癖の強い肺病的の
人と想像が出来る。疋田竹翁の話に、先生は中々美男で、少し
瘠ぎすですが、身長五尺五六寸、凛とした風采はそりや立派な
もので、髷は短く結つて居られた。色は白い方で、眼はあまり
太くなく、稍々釣気味で、少し怒を含まれた時などは、何様な
者でもびりつきましたねとあるのは、身長だけを除き人相書と
よく符合し、如何にもさうであつたかと想はれる。
■中斎の肖像
中斎の肖像を得ようとして自分は大分苦心した。塩逆述巻五
にある肖像は、塩賊騒乱記巻二にあるものと同一で、平服姿の
上半身を写してある。図の上部に「秋田清次曰、此図頗失其真」
とあつて、朱書に清次は「平八門弟ニテ只今家君門下ニ相成リ
書生寮ニ罷在候」とあるから、何分にも之は信用し難い。椎の
み筆巻廿三にある肖像は麻上下の半身像で、五七桐の紋を付け
て居る。大塩家の定紋が丸に揚羽蝶であることは武鑑によつて
明白だ。仮今五七の桐が替紋であつたとしても、礼服の麻上下
に替紋を付けるは不穏当と思はれる、従つてこの肖像も信じ難
い。最後に富岡鉄斎翁の手許に菊池容斎の書いた中斎の肖像と
いふものがあるが、之も言伝だけで証拠は無い、さういふ次第
で旧著には終に平八郎の肖像を掲げることが出来無かつたが、
その後菊池晋氏から同氏所蔵の中斎肖像を撮影恵贈せられた。
(挿図参照)不幸にして本図製作の顛末は不明だが、現在におい
てこれ以上に出づる肖像はあるまいと思ふ。
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