家計
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大塩邸は隠居平八郎・妾ゆう・当主格之助・格之助の妾みね・
其子弓太郎・養女いくの六人暮で、いくは親戚宮脇志摩の娘、
弓太郎は天保七年十二月の出生で、普通はみねを平八郎の妾、
弓太郎を平八郎の実子と唱へて居るが、その可否は詳かに後文
に考証しやう。此外曾我岩蔵といつて和州曾我村出生の若党や、
木八吉助といふ中間や、杉山三平といつて塾生の炊事の世話を
する男や、りつ・うたといふ二人の下女は居るし、十数人の塾
生から多少の月俸を納めたらうが、勿論それを以て生計の補足
にすることはあるまいし、さう余裕があつたとは思はれぬ、顔
真卿の一軸を買ひ度はありながら、代価が払へぬ為に売主河内
屋吉兵衛に与えた手紙附録(十九)は能く此間の事情を明にする
に足るものだ、大塩邸の生計を貢いだは、門人白井孝右衛門橋
本忠兵衛の二人で、それから挙兵前に所有の書籍を鬻いで貧民
に壱朱宛を施し、その金額総計六百両に上つたといへば、多数
の蔵書があつた訳であるが、其大部分は兵庫西出町の家持柴屋
長太夫が金を出したものらしく、天保三年同人入門以来同八年
正月に至るまでに、書籍代として金二百両銀拾弐貫六百目余を
貢いだとある。
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■名古屋の宗家を訪ふ
大阪の大塩家は代々名古屋白壁町の宗家を訪ひ、先祖波右衛
門が家康公から拝領した弓を拝するのが例であつたといふ。中
斎は辞職した年即ち天保元年の九月にこの先例を実行し、題始
祖善行公御弓といふ古風長篇を賦してゐるが、当時彼が宗家に
請うて建増をした六畳と三畳との書斎一棟は現存するとのこと
である。中斎の注文書に「随分質素に成し可被下候。古き木杯
にてザツト成し置可被下候」とある由、横山健堂氏から聞いた。
大塩邸は多人数暮しであつた。隠居平八郎、妾ゆう、養子格
之助、同人妻みね、孫弓太郎、養女いくの六人、奉公人として
若党・仲間・下女若干名がゐた。平八郎は名古屋の本家から養
子をする心構であつたが話が甘く調はず、継祖母の生家西田氏
から格之助を迎へたのである。同人の妻みねは般若寺村庄屋橋
本忠兵衛の女、またいくは叔父宮脇志摩の娘で、みねは天保元
年、いくは天保三年から大塩邸に養はれた。門人からの謝儀、
十数人から納める多少の月俸はあつたらうが、勿論それは生計
の補足になる程のものであるまいし、決して余裕のある生活を
したとは思はれぬ。懇意の書林河内屋吉兵衛が持参した石刻の
顔真卿の一軸を買ひたくありながら金子の才覚がつかず、大小
を質物にして得た金二両を先づ差出すにつき、残金は来春まで
待つてくれよといふ吉兵衛宛の手紙は、能くこの間の事情を明
らかにするものと思ふ。大塩邸の生計を貢いだは、門人白井孝
右衛門橋本忠兵衛の二人で、それから挙兵前に所有の書籍を鬻
いで貧民に壱朱宛を施し、その金額総計六百両に上つたといへ
ば、多数の蔵書があつた訳であるが、その大部分は兵庫西出町
の家持柴屋長太夫が金を出したものらしく、天保三年同人入門
以来同八年正月に至るまでに、書籍代として金二百両銀拾弐貫
六百目余を貢いだとある。
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