Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.9.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その55

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  一 研学 (4)
 改 訂 版

家計

大塩邸は隠居平八郎・妾ゆう・当主格之助・格之助の妾みね・ 其子弓太郎・養女いくの六人暮で、いくは親戚宮脇志摩の娘、 弓太郎は天保七年十二月の出生で、普通はみねを平八郎の妾、 弓太郎を平八郎の実子と唱へて居るが、その可否は詳かに後文 に考証しやう。此外曾我岩蔵といつて和州曾我村出生の若党や、 木八吉助といふ中間や、杉山三平といつて塾生の炊事の世話を する男や、りつ・うたといふ二人の下女は居るし、十数人の塾 生から多少の月俸を納めたらうが、勿論それを以て生計の補足 にすることはあるまいし、さう余裕があつたとは思はれぬ、顔 真卿の一軸を買ひ度はありながら、代価が払へぬ為に売主河内 屋吉兵衛に与えた手紙附録(十九)は能く此間の事情を明にする に足るものだ、大塩邸の生計を貢いだは、門人白井孝右衛門橋 本忠兵衛の二人で、それから挙兵前に所有の書籍を鬻いで貧民 に壱朱宛を施し、その金額総計六百両に上つたといへば、多数 の蔵書があつた訳であるが、其大部分は兵庫西出町の家持柴屋 長太夫が金を出したものらしく、天保三年同人入門以来同八年 正月に至るまでに、書籍代として金二百両銀拾弐貫六百目余を 貢いだとある。

    右のもの吟味仕候処、幼年書見を好、平八郎は博識 の由承り、去ル辰年中同人方江相越、修学いたし候 処、書籍無之候而者学術も進兼候間、直安之書類其外 珍書、此もの蔵書の積に而追々可買入間、金子差越置 候様平八郎申聞、最初ハ心嬉敷存、金五六拾両又者銀 一〆目程ツゝ、同人方江差遣、時々書名をも承置候得 共、……右辰年去酉正月迄之内、都合金弐百両銀拾 弐貫六百目余差遣、近頃は買入候書名をも悉者不申越、 勿論書類者不残平八郎方ニ有之、未一部も請取候儀無 之……        (評定所吟味書長太夫の條)

■名古屋の宗家を訪ふ  大阪の大塩家は代々名古屋白壁町の宗家を訪ひ、先祖波右衛 門が家康公から拝領した弓を拝するのが例であつたといふ。中 斎は辞職した年即ち天保元年の九月にこの先例を実行し、題始 祖善行公御弓といふ古風長篇を賦してゐるが、当時彼が宗家に 請うて建増をした六畳と三畳との書斎一棟は現存するとのこと である。中斎の注文書に「随分質素に成し可被下候。古き木杯 にてザツト成し置可被下候」とある由、横山健堂氏から聞いた。  大塩邸は多人数暮しであつた。隠居平八郎、妾ゆう、養子格 之助、同人妻みね、孫弓太郎、養女いくの六人、奉公人として 若党・仲間・下女若干名がゐた。平八郎は名古屋の本家から養 子をする心構であつたが話が甘く調はず、継祖母の生家西田氏 から格之助を迎へたのである。同人の妻みねは般若寺村庄屋橋 本忠兵衛の女、またいくは叔父宮脇志摩の娘で、みねは天保元 年、いくは天保三年から大塩邸に養はれた。門人からの謝儀、 十数人から納める多少の月俸はあつたらうが、勿論それは生計 の補足になる程のものであるまいし、決して余裕のある生活を したとは思はれぬ。懇意の書林河内屋吉兵衛が持参した石刻の 顔真卿の一軸を買ひたくありながら金子の才覚がつかず、大小 を質物にして得た金二両を先づ差出すにつき、残金は来春まで 待つてくれよといふ吉兵衛宛の手紙は、能くこの間の事情を明 らかにするものと思ふ。大塩邸の生計を貢いだは、門人白井孝 右衛門橋本忠兵衛の二人で、それから挙兵前に所有の書籍を鬻 いで貧民に壱朱宛を施し、その金額総計六百両に上つたといへ ば、多数の蔵書があつた訳であるが、その大部分は兵庫西出町 の家持柴屋長太夫が金を出したものらしく、天保三年同人入門 以来同八年正月に至るまでに、書籍代として金二百両銀拾弐貫 六百目余を貢いだとある。

    右のもの吟味仕候処、幼年書見を好、平八郎は博識 の由承り、去ル辰年中同人方え相越、修学いたし候 処、書籍無之候ては学術も進兼候間、直安之書類其外 珍書、此もの蔵書の積にて追々可買入間、金子差越置 候様平八郎申聞、最初は心嬉敷存、金五六拾両又者銀 一〆目程ツゝ、同人方え差遣、時々書名をも承置候得 共、……右辰年去酉正月迄之内、都合金弐百両銀拾 弐貫六百目余差遣、近頃は買入候書名をも悉は不申越、 勿論書類は不残平八郎方ニ有之、未一部も請取候儀無 之……        (評定所吟味書長太夫の條)


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