Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.9.20

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その56

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  二 著書 (1)
 改 訂 版

著述出版の
順序

中斎が陽明学研究の結果は古本大学刮目七冊・洗心洞箚記二冊・ 同附録抄一冊・奉納書籍聚跋一冊・儒門空虚聚語二冊・増補孝 経彙註三冊・洗心洞学名学則一冊、合計七部の著書となり、其 略解題は井上博士の日本陽明学派の哲学に載つてゐる、是等の 著述は孝経彙註を除く外当初皆洗心洞の蔵版で、普通書林が版 元となつて出版したものと違ひ、奥附が無い故、刊行の年月に 就いては甚だ曖味で、或は序跋の年月を以て其書上木の年月に 繋けて居るが、一概に左様は言へぬ、刮目と箚記とは天保三年 四月頼山陽が中斎を訪うた時は稿本であつた、刮目には同年六 月の自序があるが、僅々二ケ月で版木の彫刻が出来やうか、此 分は自序の年月を以て上木の年月とは認め難い、併し山陽の子 余一が江戸から安芸へ還る途中に、中斎の許に立寄つたは天保 四年四月で此時中斎は刻本の箚記を彼に与へたが、箚記の自序 は同年同月であるから、此分は序文の年月を以て上木の年月と 認め得る、然らば序跋の年月と上木の年月とは同一なることも 然らざることもある、例へば孝経彙註の如き巻首に天保五年十 一月の序を載せながら、奥附には天保六年四月とある、又刮目 と箚記と何方が早く彫刻に着手したかといへば、序文の年月に 於ては遅れてゐる箚記の方が前であつた、刮目は平八郎隠退後 の著述で、稿成つて後も之を門人子弟に伝へず、編摩の労に与 りし者より、刻に付して同志に伝へやうとした時、経を註す るの難きを陳べ、伊川程子の中庸自註を火にしたること、朱子 が死に前つ三日、猶大学誠意の章を改めしこと、及王陽明が自 著五経臆説を秦火に附したことを引き、梓に与へて悔いんより、 梓せずして悔なきに如かんやとて之を辞し、却て洗心洞箚記を 家塾の蔵版と為すを許すとある所から見ると、平八郎の著書中 第一に刊行に着手せられたのは箚記だといへる。

 中斎が陽明学研究の結果は古本大学刮目七冊・洗心洞箚記二 冊・同附録抄一冊・奉納書籍聚跋一冊・儒門空虚聚語二冊・増 補孝経彙註三冊・洗心洞学名学則并答人論学書略一冊、合計七 部の著書となつた。是等の著述は孝経彙註を除く外当初皆洗心 洞の蔵版で、普通書林が版元となつて出版したものと違ひ、奥 附が無い故、刊行の年月については基だ曖味である。或は序跋 の年月を以てその書上木の年月に繋ける人もあるが、一概に左 様は言へぬ。刮目と箚記とは天保三年四月頼山陽が中斎を訪う た時は稿本であつた。刮目には同六月の自序があるが、僅々二 ケ月で版木の彫刻が出来やうとは思はれぬから、これは自序の 年月を以て上木の年月とは認め難い。併し天保四年四月山陽の 子余一が江戸から安芸へ還る途中、中斎の許に立寄つた時、中 斎は刻本の箚記を彼に与へたが、箚記の自序は同年同月である から、これは序文の年月を以て上木の年月と認め得る。然らば 序跋の年月と上木の年月とは同一なることも然らざることもあ る。刮目と箚記と何方が早く彫刻に着手したかといへば、序文 の年月において遅れてゐる箚記の方が前であつた。刮目は稿成 つて後も之を門人子弟に伝へず、編摩の労に与つた者から、刻 に付して同志に伝へようと勧めた時、経を註するの難きを陳 べ、伊川程子の中庸自註を火にしたこと、朱子が死に前つ三日、 猶大学誠意の章を改めたこと、及び王陽明が自著五経臆説を秦 火に附したことを引き、梓に与へて悔いんより、梓せずして悔 なきに如かんやとて之を辞し、却て洗心洞箚記を家塾の蔵版と 為すを許すとある所から見ると、平八郎の著書中第一に刊行に 着手せられたのは箚記だといへる。


「大塩平八郎」目次2/ その55/その57

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