著述出版の
順序
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中斎が陽明学研究の結果は古本大学刮目七冊・洗心洞箚記二冊・
同附録抄一冊・奉納書籍聚跋一冊・儒門空虚聚語二冊・増補孝
経彙註三冊・洗心洞学名学則一冊、合計七部の著書となり、其
略解題は井上博士の日本陽明学派の哲学に載つてゐる、是等の
著述は孝経彙註を除く外当初皆洗心洞の蔵版で、普通書林が版
元となつて出版したものと違ひ、奥附が無い故、刊行の年月に
就いては甚だ曖味で、或は序跋の年月を以て其書上木の年月に
繋けて居るが、一概に左様は言へぬ、刮目と箚記とは天保三年
四月頼山陽が中斎を訪うた時は稿本であつた、刮目には同年六
月の自序があるが、僅々二ケ月で版木の彫刻が出来やうか、此
分は自序の年月を以て上木の年月とは認め難い、併し山陽の子
余一が江戸から安芸へ還る途中に、中斎の許に立寄つたは天保
四年四月で此時中斎は刻本の箚記を彼に与へたが、箚記の自序
は同年同月であるから、此分は序文の年月を以て上木の年月と
認め得る、然らば序跋の年月と上木の年月とは同一なることも
然らざることもある、例へば孝経彙註の如き巻首に天保五年十
一月の序を載せながら、奥附には天保六年四月とある、又刮目
と箚記と何方が早く彫刻に着手したかといへば、序文の年月に
於ては遅れてゐる箚記の方が前であつた、刮目は平八郎隠退後
の著述で、稿成つて後も之を門人子弟に伝へず、編摩の労に与
りし者より、刻に付して同志に伝へやうとした時、経を註す
るの難きを陳べ、伊川程子の中庸自註を火にしたること、朱子
が死に前つ三日、猶大学誠意の章を改めしこと、及王陽明が自
著五経臆説を秦火に附したことを引き、梓に与へて悔いんより、
梓せずして悔なきに如かんやとて之を辞し、却て洗心洞箚記を
家塾の蔵版と為すを許すとある所から見ると、平八郎の著書中
第一に刊行に着手せられたのは箚記だといへる。
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中斎が陽明学研究の結果は古本大学刮目七冊・洗心洞箚記二
冊・同附録抄一冊・奉納書籍聚跋一冊・儒門空虚聚語二冊・増
補孝経彙註三冊・洗心洞学名学則并答人論学書略一冊、合計七
部の著書となつた。是等の著述は孝経彙註を除く外当初皆洗心
洞の蔵版で、普通書林が版元となつて出版したものと違ひ、奥
附が無い故、刊行の年月については基だ曖味である。或は序跋
の年月を以てその書上木の年月に繋ける人もあるが、一概に左
様は言へぬ。刮目と箚記とは天保三年四月頼山陽が中斎を訪う
た時は稿本であつた。刮目には同六月の自序があるが、僅々二
ケ月で版木の彫刻が出来やうとは思はれぬから、これは自序の
年月を以て上木の年月とは認め難い。併し天保四年四月山陽の
子余一が江戸から安芸へ還る途中、中斎の許に立寄つた時、中
斎は刻本の箚記を彼に与へたが、箚記の自序は同年同月である
から、これは序文の年月を以て上木の年月と認め得る。然らば
序跋の年月と上木の年月とは同一なることも然らざることもあ
る。刮目と箚記と何方が早く彫刻に着手したかといへば、序文
の年月において遅れてゐる箚記の方が前であつた。刮目は稿成
つて後も之を門人子弟に伝へず、編摩の労に与つた者から、刻
に付して同志に伝へようと勧めた時、経を註するの難きを陳
べ、伊川程子の中庸自註を火にしたこと、朱子が死に前つ三日、
猶大学誠意の章を改めたこと、及び王陽明が自著五経臆説を秦
火に附したことを引き、梓に与へて悔いんより、梓せずして悔
なきに如かんやとて之を辞し、却て洗心洞箚記を家塾の蔵版と
為すを許すとある所から見ると、平八郎の著書中第一に刊行に
着手せられたのは箚記だといへる。
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