Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.9.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その57

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  二 著書 (2)
 改 訂 版

古本大学刮
目

古本大学の名称は王陽明が十三経中鄭氏の註により、礼記に在つ たまゝの大学を覆刻し、之に古本の二字を加へ、朱子の改本と区 別した為で、古本の二字は真本の意味に用ゐられて居る、古本大 学刮目は先づ古本大学の源流を明弁せる先儒の諸説を集め、次に 誠意・親民・致知・格物・及知行合一の解につき、王氏の説と符 合せるもの若干條を加へて之を綱領と為し、さて大学の本文を三 十七節に分ち、毎節王氏及先儒の諸説を置き、一字を下して中斎 の按語を加へ、其諸説配列の順序は、全旨大意を説破するものを 第一に、名義を析講するものを第二に、経義を通解するものを第 三に、存疑余論を第四に置いてある、要するに本書は大学の本文 はもと礼記に存し、闕伝錯簡なく、致知の知は良知に因り其知を 致すの謂にして、知識を推広するにあらず、格物の物は外物に非 ずして其事を正すの謂にして、物理を窮至するにあらずといひ、 朱子の改本を非とし、朱子の解釈を足らずとし、王氏・王門親灸 私淑諸氏・及漢唐より明清に至る諸儒・合計二百三十余家の説を 集めてあるものだ、著者は本書によりて百毀千謗の蜂起せんこと を予定し、「学を論ずるに因りて矢を吾身に集む、固より甘心す る所なり」と公言してゐるが、本書に対しては山陽が其綱領を読 んで、「是非一家の言、昔儒格言の府なり、襄や不敏と雖も請ふ 之に序せん」と言つたとあるばかりで、其余の批評は未だ聞見に 入らないのみならず、本書其ものも今日に於ては伝本が甚だ少い、 恐くは出版当時僅少の部数を刷つたに終つたのであらう。

 古本大学の名称は王陽明が十三経中鄭氏の註により、礼記に在 つたまゝの大学を覆刻し、之に古本の二字を加へ、朱子の改本と 区別した為で、古本の二字は真本の意味に用ひられて居る。古本 大学刮目は先づ古本大学の源流を明弁せる先儒の諸説を集め、次 ぎに誠意・親民・致知・格物及び知行合一の解につき、王氏の説 と符合せるもの若干條を加へて之を綱領と為し、さて大学の本文 を三十七節に分ち、毎節王氏及び先儒の諸説を置き、一字を下し て中斎の按語を加へ、さうして諸説配列の順序としては、全旨大 意を説破するものを第一に、名義を析講するものを第二に、経義 を通解するものを第三に、存疑余論を第四に置いてある。要する に本書は大学の本文はもと礼記に存し、闕伝錯簡なく、致知の知 は良知に因りその知を致すの謂にして、知識を推広するにあらず、 格物の物は外物に非ずしてその事を正すの謂にして、物理を窮至 するにあらずといひ、朱子の改本を非とし、朱子の解釈を足らず とし、王氏・王門親灸私淑諸氏・及び漢唐より明清に至る諸儒、 合計二百三十余家の説を集めてある。本書は天保三年一旦成稿し、 引続き校訂を加へ、天保七年五月に至り完成したことは、中斎が 伊勢の友人平松楽斎に与へた手紙によつて知られる。「十四年以 来精力を尽し」とあれば、文政六年三十一歳の時に筆を起したも のといへる。著者は本書によりて百毀千謗の蜂起せんことを予定 し、「学を論ずるに因りて矢を吾身に集む、固より甘心する所な り」と公言してゐる位だから、著者会心の作といふべきだ。山陽 は本書の綱領を読んで、「是非一家の言、昔儒格言の府なり、襄 や不敏と雖も請ふ之に序せん」と言つたが、それから数月にして 山陽は死んだ。序文を佐藤一斎及び斎藤拙堂に依頼したが、前者 は「拙序の義は御無用被下度候、……然処拙老事御承知の通林家 を羽翼いたし候場所に居候へば、所謂避嫌許多有之候。自分の事 は兎も角もに候共、林家の学と異同を立候様に相成、林氏の為に 不宜候間、上木ものなとに姚学めきたる事は致遠慮候」といつて 謝絶し、後者は終に脱稿しなかつたらしい。本書の伝本が甚だ少 いのは版刻成つてから、間もなく兵火が起り、大部分が烏有に帰 したためであらう。


「大塩平八郎」目次2/ その56/その58

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