Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.10.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その58

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  二 著書 (3)
 改 訂 版

洗心洞箚記

洗心洞箚記二冊は実に中斎畢生の大作である、「余が箚記は僣に 河東の読書録、寧陵の語、及寒松堂の庸言等に傚ひ、目の触 るゝ所、心の得る所有る毎に、之を筆して以て自ら警め、又以て 子弟の憤を助発するのみ」とあるは、畢竟謙遜の辞に過ぎず、 彼が本書一部を伊勢朝熊嶽の絶頂に燔かうとしたは、天照大神に 告げん為である、本書及附録一冊を佐藤一斎斎藤拙堂等数十氏に 寄贈したのは、自説の可否を諮ふ為である、富士山の石室に一本 を蔵めたは後の学者を俟つ為である、一生の心血半は注いで此書                          オシ に在りと言ふも決して空言で無い、但し平八郎は山田の御師で近             ヒロノリ 代の国学者たる足代権太夫弘訓から宮崎文庫林崎文庫の奉納書籍 の話を聞き、朝熊山上に燔くことを罷め、是歳秋七月富士登山の 帰路伊勢に到り、両文庫に箚記各々一部を納め、之を縁故として 引続き朱子文集・古本大学・及伝習録を両文庫へ、陸象山全集を 宮崎文庫ヘ、王陽明文抄を林崎文庫へ奉納することゝなつた、箚 記は其書名の如く箚記日録で、下巻の末に董子已下諸賢の説を挙 げ、按語を加ヘ、弁説を添へて、斯学の源流伝来を明にした所は、 稍々安排布置の体を備へてゐる、要するに編章を設け首尾を整へ たる著述では無いが、中斎の学説を知るには本書を以て最も適当 なものとする、本書の版木は天保六年夏書林の手に引渡され、其 時出版の分には巻頭の自述の次に、天保六乙未夏四月とある後自 述を加へ、下巻の終に門人松浦誠之・湯川幹・松本乾知の跋があ る。

 洗心洞箚記二冊は実に中斎畢生の大作である。「余が箚記は僣 に河東の読書録、寧陵の語、及び寒松堂の庸言等に傚ひ、目 の触るゝ所、心の得る所有る毎に、之を筆して以て自ら警め、又 以て子弟の憤を助発するのみ」とあるは、畢竟謙遜の辞に過ぎず、 彼が本書一部を伊勢朝熊嶽の絶頂に燔かうとしたは、天照大神に 告げん為である。一斎拙堂等数十氏に寄贈したは、自説の可否を 諮ふ為である。富士山の石室に蔵めたは後の学者を俟つ為であ る。一生の心血半は注いでこの書に在りと言ふも決して空言で無           オシ            ヒロノリ い。但し中斎は山田の御師で近代の国学者たる足代権太夫弘訓か ら外宮附属の宮崎文庫内宮附属の林崎文庫の奉納書籍の話を聞き、 朝熊山上に燔くことを罷め、天保四年七月富士登山の帰路三州吉 田より海を航して伊勢に到り、両文庫に箚記各々一部を納め、翌 月更に朱子文集・古本大学・及び伝習録を両文庫へ、陸象山全集 を宮崎文庫ヘ、王陽明文抄を林崎文庫へ奉納するに至つた。箚記 は書名の示す如く箚記日録で、下巻の末に董子已下諸賢の説を挙 げ、按語を加ヘ、弁説を添へて、斯学の源流伝来を明らかにした 所は、稍々安排布置の体を備へてゐる。要するに編章を設け首尾 を整へた著述では無いが、中斎の学説を知るには本書を以て最も 適当とする。本書の版木は天保六年夏書林の手に引渡され、出版 の分には巻頭の自述の次に、天保六乙未夏四月とある後自述及び 箚記或問二條を、また下巻の終に門人松浦誠之・湯川幹・松本乾 知の跋を加へた。


「大塩平八郎」目次2/ その57/その59

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