洗心洞箚記
|
洗心洞箚記二冊は実に中斎畢生の大作である、「余が箚記は僣に
河東の読書録、寧陵の語、及寒松堂の庸言等に傚ひ、目の触
るゝ所、心の得る所有る毎に、之を筆して以て自ら警め、又以て
子弟の憤を助発するのみ」とあるは、畢竟謙遜の辞に過ぎず、
彼が本書一部を伊勢朝熊嶽の絶頂に燔かうとしたは、天照大神に
告げん為である、本書及附録一冊を佐藤一斎斎藤拙堂等数十氏に
寄贈したのは、自説の可否を諮ふ為である、富士山の石室に一本
を蔵めたは後の学者を俟つ為である、一生の心血半は注いで此書
オシ
に在りと言ふも決して空言で無い、但し平八郎は山田の御師で近
ヒロノリ
代の国学者たる足代権太夫弘訓から宮崎文庫林崎文庫の奉納書籍
の話を聞き、朝熊山上に燔くことを罷め、是歳秋七月富士登山の
帰路伊勢に到り、両文庫に箚記各々一部を納め、之を縁故として
引続き朱子文集・古本大学・及伝習録を両文庫へ、陸象山全集を
宮崎文庫ヘ、王陽明文抄を林崎文庫へ奉納することゝなつた、箚
記は其書名の如く箚記日録で、下巻の末に董子已下諸賢の説を挙
げ、按語を加ヘ、弁説を添へて、斯学の源流伝来を明にした所は、
稍々安排布置の体を備へてゐる、要するに編章を設け首尾を整へ
たる著述では無いが、中斎の学説を知るには本書を以て最も適当
なものとする、本書の版木は天保六年夏書林の手に引渡され、其
時出版の分には巻頭の自述の次に、天保六乙未夏四月とある後自
述を加へ、下巻の終に門人松浦誠之・湯川幹・松本乾知の跋があ
る。
|
洗心洞箚記二冊は実に中斎畢生の大作である。「余が箚記は僣
に河東の読書録、寧陵の語、及び寒松堂の庸言等に傚ひ、目
の触るゝ所、心の得る所有る毎に、之を筆して以て自ら警め、又
以て子弟の憤を助発するのみ」とあるは、畢竟謙遜の辞に過ぎず、
彼が本書一部を伊勢朝熊嶽の絶頂に燔かうとしたは、天照大神に
告げん為である。一斎拙堂等数十氏に寄贈したは、自説の可否を
諮ふ為である。富士山の石室に蔵めたは後の学者を俟つ為であ
る。一生の心血半は注いでこの書に在りと言ふも決して空言で無
オシ ヒロノリ
い。但し中斎は山田の御師で近代の国学者たる足代権太夫弘訓か
ら外宮附属の宮崎文庫内宮附属の林崎文庫の奉納書籍の話を聞き、
朝熊山上に燔くことを罷め、天保四年七月富士登山の帰路三州吉
田より海を航して伊勢に到り、両文庫に箚記各々一部を納め、翌
月更に朱子文集・古本大学・及び伝習録を両文庫へ、陸象山全集
を宮崎文庫ヘ、王陽明文抄を林崎文庫へ奉納するに至つた。箚記
は書名の示す如く箚記日録で、下巻の末に董子已下諸賢の説を挙
げ、按語を加ヘ、弁説を添へて、斯学の源流伝来を明らかにした
所は、稍々安排布置の体を備へてゐる。要するに編章を設け首尾
を整へた著述では無いが、中斎の学説を知るには本書を以て最も
適当とする。本書の版木は天保六年夏書林の手に引渡され、出版
の分には巻頭の自述の次に、天保六乙未夏四月とある後自述及び
箚記或問二條を、また下巻の終に門人松浦誠之・湯川幹・松本乾
知の跋を加へた。
|