塩賊か狂儒
か
大塩様
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塩逆賊塩賊騒乱記の書名から見れば、是等の編者は大塩平八郎
を目して逆賊としたのは明白である、彼を狂儒と嘲つたは 件
信友のみで無い、併し当時兵燹に罹つて家を失つた町人中、尚
大塩様の尊称を用ゐ、又春日潜庵は彼を称して勤王の魁といつ
た、楯の両面を見よとの諺はあるが、此の如きは表裏の差甚し
といふべきである、挙兵より自滅に至るまでの平八郎を知るに
足る書物は随分多いが、彼が幼年より挙兵に至るまでの履歴を
書いたものは極めて少く、偶々有つても真偽混淆で信じ難い、
伝記といふ総称の中に、墓碣銘行状の類は子孫・親戚・乃至友
人の撰に成るものであるから、自ら美の一方面を記すに傾き易
く、自伝覚書の類は後年の追記であるから、筆者の思違もあり、
或は筆者その人によつて誇張に趨ることが無いとも限らぬ、日
記があれば絶好の材料であるが、日記を獲らるゝは稀有の例で
ある、又後世の編纂にかゝる伝記は、編纂者其人が書中の主人
公に対し、与め敬慕の念を持つて居るのが通例で、時としては
憎悪の念を抱いて居ることもあるが、 孰れにせよ一方を捨てゝ
一方を採る弊が見える、徒来の伝記は大抵此弊に陥つて居る様
に思はれる、幕府より言へば平八郎は平和撹乱の逆賊で、墓石
を建つることすら出来ぬ、
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要するに、幾多の史料中挙兵より自滅に至るまでの平八郎を
知るに足る史料は随分多いが、彼が幼年より挙兵に至るまでの
履歴を書いたものは極めて少く、偶々有つても真偽混淆で信じ
難い。伝記といふ総称の中に、墓碣銘行状の類は子孫・親戚・
乃至友人の撰に成るものであるから、自ら美の一方面を記すに
傾き易く、自伝覚書の類は後年の追記であるから、筆者の思違
もあり、或は筆者その人によつて誇張に趨ることが無いとも限
らぬ。日記があれば絶好の材料であるが、目記を獲らるゝは稀
有の例である。また後世の編纂にかゝる伝記は、編纂者自身が
書中の主人公に対し、与め敬慕の念を持つて居るのが通例で、
時としては憎悪の念を抱いて居ることもあるが、孰れにせよ一
方を捨てゝ一方を採る弊があり、徒来の伝記中この弊に陥つて
居るものが多いやうに思はれる。幕府から言へば平八郎は平和
撹乱の逆賊で、墓石を建つることすら出来ぬ。 |
自伝二篇
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従つて墓碣銘行状の類があらう筈はないが、幸に簡単とはいへ
彼の自伝と称すべきものが二篇ある、一は洗心洞詩文に見ゆる
辞職の詩並序で、一は平八郎が洗心洞箚記に添へて佐藤一斎に
与へた尺牘で、もと洗心洞箚記附録に載つてあつたものと思わ
れる、全文は井上博士の日本陽明学派之哲学中の掲載されて居
るが、其出所に就いて井上博士に伺つたら、博士は洗心洞箚記
抄録と題する写本から引用されたので、原本所蔵者は今日住所
不明であるとの御話であつた、此両史料を基礎として挙兵前の
平八郎の伝記を叙述するのは、最も安全にして且つ適当なる方
法とすべきであらう。
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従つて墓碣銘行状の類があらう筈はないが、幸に簡単とはいへ
彼の自伝と称すべきものが二篇ある。一は洗心洞詩文に見ゆる
辞職の詩并序附録(一)であり、他は平八郎が洗心洞箚記に添へ
て佐藤一斎に与へた尺牘附録(三)で、洗心洞箚記附録と題し、
神宮文庫に一本を蔵してゐることを同文庫主管故大久保堅磐氏
によつて教へられた。この両史料を基礎として挙兵前の平八郎
の伝記を叙述するのは、最も安全にして且つ適当な方法であら
う。
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