Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.1.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その6

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 緒 論(3) 改 訂 版

塩賊か狂儒
か

大塩様


塩逆賊塩賊騒乱記の書名から見れば、是等の編者は大塩平八郎 を目して逆賊としたのは明白である、彼を狂儒と嘲つたは 件 信友のみで無い、併し当時兵燹に罹つて家を失つた町人中、尚 大塩様の尊称を用ゐ、又春日潜庵は彼を称して勤王の魁といつ た、楯の両面を見よとの諺はあるが、此の如きは表裏の差甚し といふべきである、挙兵より自滅に至るまでの平八郎を知るに 足る書物は随分多いが、彼が幼年より挙兵に至るまでの履歴を 書いたものは極めて少く、偶々有つても真偽混淆で信じ難い、 伝記といふ総称の中に、墓碣銘行状の類は子孫・親戚・乃至友 人の撰に成るものであるから、自ら美の一方面を記すに傾き易 く、自伝覚書の類は後年の追記であるから、筆者の思違もあり、 或は筆者その人によつて誇張に趨ることが無いとも限らぬ、日 記があれば絶好の材料であるが、日記を獲らるゝは稀有の例で ある、又後世の編纂にかゝる伝記は、編纂者其人が書中の主人 公に対し、与め敬慕の念を持つて居るのが通例で、時としては 憎悪の念を抱いて居ることもあるが、 孰れにせよ一方を捨てゝ 一方を採る弊が見える、徒来の伝記は大抵此弊に陥つて居る様 に思はれる、幕府より言へば平八郎は平和撹乱の逆賊で、墓石 を建つることすら出来ぬ、

 要するに、幾多の史料中挙兵より自滅に至るまでの平八郎を 知るに足る史料は随分多いが、彼が幼年より挙兵に至るまでの 履歴を書いたものは極めて少く、偶々有つても真偽混淆で信じ 難い。伝記といふ総称の中に、墓碣銘行状の類は子孫・親戚・ 乃至友人の撰に成るものであるから、自ら美の一方面を記すに 傾き易く、自伝覚書の類は後年の追記であるから、筆者の思違 もあり、或は筆者その人によつて誇張に趨ることが無いとも限 らぬ。日記があれば絶好の材料であるが、目記を獲らるゝは稀 有の例である。また後世の編纂にかゝる伝記は、編纂者自身が 書中の主人公に対し、与め敬慕の念を持つて居るのが通例で、 時としては憎悪の念を抱いて居ることもあるが、孰れにせよ一 方を捨てゝ一方を採る弊があり、徒来の伝記中この弊に陥つて 居るものが多いやうに思はれる。幕府から言へば平八郎は平和 撹乱の逆賊で、墓石を建つることすら出来ぬ。


自伝二篇

従つて墓碣銘行状の類があらう筈はないが、幸に簡単とはいへ 彼の自伝と称すべきものが二篇ある、一は洗心洞詩文に見ゆる 辞職の詩並序で、一は平八郎が洗心洞箚記に添へて佐藤一斎に 与へた尺牘で、もと洗心洞箚記附録に載つてあつたものと思わ れる、全文は井上博士の日本陽明学派之哲学中の掲載されて居 るが、其出所に就いて井上博士に伺つたら、博士は洗心洞箚記 抄録と題する写本から引用されたので、原本所蔵者は今日住所 不明であるとの御話であつた、此両史料を基礎として挙兵前の 平八郎の伝記を叙述するのは、最も安全にして且つ適当なる方 法とすべきであらう。

従つて墓碣銘行状の類があらう筈はないが、幸に簡単とはいへ 彼の自伝と称すべきものが二篇ある。一は洗心洞詩文に見ゆる 辞職の詩并序附録(一)であり、他は平八郎が洗心洞箚記に添へ て佐藤一斎に与へた尺牘附録(三)で、洗心洞箚記附録と題し、 神宮文庫に一本を蔵してゐることを同文庫主管故大久保堅磐氏 によつて教へられた。この両史料を基礎として挙兵前の平八郎 の伝記を叙述するのは、最も安全にして且つ適当な方法であら う。

 

    洗心洞箚記附録については、随分諸所の文庫を渉猟 したり、又友人に問合せたりしたが、今日接手した 神宮文庫主管大久保堅磐氏の手紙により、漸く該文 庫に一本(本文紙数四枚毎半枚九行廿一字)を蔵する ことを知り、尚小生の為に特に影写寄附せられた一 本によつて小生は箚記附録が一斎に寄せた尺牘であ るとの想像の当れるを知り、謹んで茲に感謝の意を 表する。              十月十八日成友記

  


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