Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.1.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その7

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  一 生立 (1)
 改 訂 版
 一 家系

大塩波右衛
門


天満与力



大塩家旧宅























祖父政之丞

父平八郎



平八郎は祖先を波右衛門といつて今川氏の一族であつた、今川 氏滅亡後波右衛門は松平甲蔵・本目権左衛門・及尼崎衛門の周 旋で岡崎の徳川家康に仕へ、小田原役には敵将足立勘平を馬前 に刺して、家康から持弓を賞賜せられ、又釆地を伊豆の塚本邑 に賜はつたが、大阪陣の時には既に老年であつて戦場に従はず、 越後柏崎の堡を守り、其後尾張藩に属して嫡子に其家を伝へ、 季子は大阪に出て、町奉行付の与力と為り、代々其職を襲いだ のである、一体大阪には東西に町奉行があつて各々与力三十騎 同心五十人を領し、町奉行は幕命によつて交代するが、与力同 心は居付で而も御抱席である、忰が跡を継ぐ時は、親某願の通 御暇下さる、忰某番代申付くるといふ達になつて、表向は一代 限であるから、内実は世襲でも、御譜代席とは格式が違ふ、与 力は高二百石、現米に換算して八十石、同心は十石三人扶持を 賜り、地面も与力は一人五百坪同心は一人弐百坪を天満及川崎 に与へられ、天満の分は与力町・南同心町・北同心町の通称が あつて、今日は各々一丁目二丁目に分れ、川崎の分は造幣局泉 布観の構内に入り、或は新川崎町の一部と為つて仕舞つたが、 当時は中屋敷四軒屋敷等の通称があつて、大塩の家は天満橋筋 ナガラ 長柄町を東へ入つて角から二軒目の南側で、所謂四軒屋敷の一 であつた、平八郎後素は、寛政五年を以て生れ、祖父を政之丞 成余、父を平八郎敬高といひ、同十一年五月十一日父敬高三十 歳にて歿したるにより、祖父成余の嗣となり、同年又母を喪ひ、 文政元年六月二日祖父六十七歳にて歿して番代を命ぜられ、所 謂嫡孫承祖となつたのである。

 平八郎は祖先を波右衛門といつて今川氏の一族であつた。今 川氏滅亡後波右衛門は岡崎の徳川家康に仕へ、小田原役には敵 将足立勘平を討取り、その節弓を切折られたので家康から持弓 を賞賜せられ、また釆地を伊豆の塚本邑に賜はつたが、その後 松平上総介忠輝に仕ヘ、大阪陣の時には越後柏崎の堡を守り、 上総介逝去後尾州徳川家に属して嫡子にその家を伝へ、季子は 大阪に出て、町奉行組与力と為つた。それが大阪大塩氏の初代 であるといふ。  一体大阪には東西に町奉行があつて各々与力三十騎同心五十 人を領し、町奉行は幕命によつて交代するが、与力同心は居付 で而も御抱席である。忰が跡を継ぐ時は、親某願の通御暇下さ る、忰某番代申付くるといふ申渡で、表向は一代限であるから、 内実は世襲でも、御譜代席とは格式が違ふ。与力は高二百石、 現米に換算して八十石、同心は十石三人扶持を賜はり、屋敷地 として与力は一人五百坪同心は一人弐百坪を天満及び川崎に与 へられ、天満の分は与力町・南同心町・北同心町の通称があつ て、今日は各々一丁目二丁目に分れ、川崎の分は或は造幣局泉 布観の構内に入り、或は新川崎町の一部と為つて仕舞つたが、 当時は中屋敷四軒屋敷等の通称があつて、大塩の家は天満橋筋 長柄町を東へ入つて角から二軒目の南側で、所謂四軒屋敷の一 であつた。 祖父政之丞成余 父平八郎敬高  平八郎後素は、祖父を政之丞成余、父を平八郎敬高といふ。 寛政十一年五月十一日父敬高三十歳にて歿したるにより、祖父 成余の嗣となり、文政元年六月二日祖父六十七歳にて歿したる により、番代を命ぜられ、所謂嫡孫承祖となつた。祖父及び父 の歿日と享年とは後素が建てた二基の石碑の文面による。前者 には「嫡孫平八郎是碑を建つ」、また後者には「天保六歳次乙 未冬孝子源後素之を誌す」とある。旧碑が天保五年七月十一日 堂島の出火で焼毀したため再建したので、今両基とも天満東寺 町成正寺本堂前に南面して建つてゐるが、もとは本堂裏手の墓 地にあつたといふ。但しその旧位置は明確でない。 政之丞後妻西田氏  平八郎の母や祖母について下に記載する所は、亡友打越竹三 郎氏の案内によつて自分が調査した所である。前掲成正寺から 東へ二軒目の蓮興寺に政之丞の後妻西田氏の墓がある。正面に 寮正院妙誠日耀大姉、右側に文政十一戊子七月十九日、左側に 大塩政之丞継室西田氏名清享年六十四、墓石に大塩氏とある五 輪塔で、文字は成正寺にある父祖の墓碑同様後素の自筆と認め る。但し西田氏は政之丞の夫人ではあるが、平八郎敬高の生母 では無い。何となれば、歿年と享年とから逆算して、西田氏及 び敬高の生年を数へると、西田氏は明和二年生、敬高の生れた 明和七年には僅かに六歳であるからで、之には少からず落胆し たが、去り乍らこの墓石によつて後素が与力西田青大夫の弟格 之助を養子とした縁故が分つた。即ち彼は継祖母の生家から養 子をしたのである。敬高の弟で吹田の神官宮脇氏へ養子に行つ た志摩は或は西田氏の生む所か。 政之丞先妻か  この墓の側に同じ様な五輸塔でやゝ小ぶりなものがある。中 央に本種院妙因日量、右に秀顔童子、左に暁夢嬰孩、台石に大 塩氏と刻まれてゐる。多分これが政之丞の先妻の墓石であらう と考へるが、確証の無いこととて、断言する訳に行かぬ。 平八郎敬高の妻  猶同寺の過去帳九月廿日の條に、清心院妙義日浄寛政十二申 九月廿日、大塩平八妻とある。これは平八郎敬高の妻卸ち後素 の実母であるが、本姓俗名の書いてないのは如何にも残念だ。 但し、東組与力大西与五郎は後素の伯父に当るといふから、敬 高の妻は多分大西氏であつたらう。敬高夫妻の間には平八郎の 外に忠之丞といふ子があつたが、寛政十二年七月二十五日二歳 で歿つたことが、敬高の基碑の左側に刻んである。後素は附録 (三)に「父母は僕七歳の時倶に歿す」と書いてゐるが、成正寺 にある父の墓には歿年を寛政十一年己未とし、運興寺の過去帳 には母の歿年を寛政十二申としてある。数字を誤記することは 有勝としても、干支を間違へることは有るべからざる話だ。後 素は与力を辞職した年を或は三十七歳とし、或は三十八歳とし てゐる。即ち附録(一)には、天保元年「秋七月(高井公)養病 の疏を上りて未だ允されず、鳴呼、余齢則ち三十有七」とし、 附録(三)には、「故に決然として致仕帰休す、徒に人禍を恐れ て然するに非ず、是時僕年三十又八」とあるが、之と同じ様に、 一年違ひに歿した父母を同年に歿したと誤つたか。文章の勢と いふこともあらうが、我々歴史を学ぶ者は文章に制せられては ならぬと確信する。


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