寛政五年平
八郎生る
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平八郎の生年月日を積極的に記した史料は無く、僅に歿年と享
年とより逆算して生年を知るに過ぎないが、大概の平八郎伝に
は寛政六年に生れ、天保八年四十四歳にして歿すとある、成程
天保八年より四十四だけ逆に数へれば寛政六年の生れとなるが、
享年四十四といふが、抑も何を根拠としたか明記したものは無
い、平八郎父子の捕縛の人相書中にも、平八郎は年齢四十五六
歳とあつて曖昧なるのみならず、平八郎自作の文章中我年齢を
記して前後に矛盾があるのも如何にも可笑しい、即ち辞職の詩
の序附録(六)には「天保元年秋七月養病の疏を上りて未だ允さ
れず、鳴呼、余齢則三十有七とあるが、佐藤一斎に与ふる尺牘
附録(八)には「故に決然として致仕帰休す、徒に人禍を恐るゝ
に非ず、是時僕三十又八」とある、天保元年三十七とすれば同
八年は四十四で、寛政六年の生れといへるが、天保八年を三十
八とすれば、寛政五年の生で享年四十五と言はねばならず、孰
を可とし孰を否とすべきか、共に平八郎の執筆せしものなれば、
価値同一にして甲乙あるにあらずと雖も、尺牘中に僕七歳の時
父母共に歿すとあり、而して平八郎の父敬高の歿年は碑石附録
(一)に刻れ、動し難きもの故、寛政十一年より逆算し、平八郎
の生年を寛政五年にかけるのが至当で、従つて享年は四十五歳
となるのである。
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平八郎後素の生年
天保元年三十七歳とすれば、後素は寛政六年生であり、三十
八歳とすれば寛政五年生となる。久しい間議論の種子であつた
が、後素自身の作つた文章に「予誕辰即寛政五年癸丑春正月二
十又二日矣」とあれば、もう論議する必要はない。これは後素
誕辰の際継祖母の実家西田氏から祝つてくれた鶴の画を一旦紛
失し、再びそれを得た時に作つた詩の序の冒頭にある句だ。
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