Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.1.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その8

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


明らかに誤植と思われるものは訂正しています。

 第一章 与力
  一 生立 (2)
 改 訂 版



寛政五年平
八郎生る

平八郎の生年月日を積極的に記した史料は無く、僅に歿年と享 年とより逆算して生年を知るに過ぎないが、大概の平八郎伝に は寛政六年に生れ、天保八年四十四歳にして歿すとある、成程 天保八年より四十四だけ逆に数へれば寛政六年の生れとなるが、 享年四十四といふが、抑も何を根拠としたか明記したものは無 い、平八郎父子の捕縛の人相書中にも、平八郎は年齢四十五六 歳とあつて曖昧なるのみならず、平八郎自作の文章中我年齢を 記して前後に矛盾があるのも如何にも可笑しい、即ち辞職の詩 の序附録(六)には「天保元年秋七月養病の疏を上りて未だ允さ れず、鳴呼、余齢則三十有七とあるが、佐藤一斎に与ふる尺牘 附録(八)には「故に決然として致仕帰休す、徒に人禍を恐るゝ に非ず、是時僕三十又八」とある、天保元年三十七とすれば同 八年は四十四で、寛政六年の生れといへるが、天保八年を三十 八とすれば、寛政五年の生で享年四十五と言はねばならず、孰 を可とし孰を否とすべきか、共に平八郎の執筆せしものなれば、 価値同一にして甲乙あるにあらずと雖も、尺牘中に僕七歳の時 父母共に歿すとあり、而して平八郎の父敬高の歿年は碑石附録 (一)に刻れ、動し難きもの故、寛政十一年より逆算し、平八郎 の生年を寛政五年にかけるのが至当で、従つて享年は四十五歳 となるのである。

平八郎後素の生年  天保元年三十七歳とすれば、後素は寛政六年生であり、三十 八歳とすれば寛政五年生となる。久しい間議論の種子であつた が、後素自身の作つた文章に「予誕辰即寛政五年癸丑春正月二 十又二日矣」とあれば、もう論議する必要はない。これは後素 誕辰の際継祖母の実家西田氏から祝つてくれた鶴の画を一旦紛 失し、再びそれを得た時に作つた詩の序の冒頭にある句だ。


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