読礼堂
中斎
鏡中観花館
新塾
旧塾
杉山三平
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元来町天満与力は一人五百坪の地面を賜はつたもので、多少の
相違はあるとしても、先づ之が与力一軒分の坪数であるから、
大塩邸の建坪は左様大したものではあるまい、玄関を上つて右
へ往けば塾、左へ往けば講堂、講堂の後が書斎、それから勝手
向となる、講堂を読礼堂、書斎を中斎といひ、講堂の西側には
王陽明が龍場の諸生に示せる立志・勧学・改過・責善の四篇を
掲げ、東側には呂新吾の学に関する語十七條を掲げ、共に文政
八年正月十四日と記し、別に同年四月を以て謹書した銭緒山の
天成篇を掲げ(掲出の場所不明)、又勝手向には鏡中観花館と
題する額があつて、塾生は之に出入するを得ぬ。本箱は玄関か
ら講堂書斎へかけて二三段に積上げ、土蔵中には一切経もあつ
た、塾は新塾旧塾の二つに分れ、旧塾は平八郎の居宅に続き、
新塾は東隣の空屋を補理つたもので、天保八年二月頃旧塾に居
つた九名の人々は其姓名まで判然してゐる、大塩乱与党の一人
杉山三平の吟味書によると、三平はもと河内衣摺村の庄屋で熊
蔵といひ、不都合の事あつて村払となり、諸所流浪の後白井孝
右衛門の世話で是月七日から大塩邸に起臥し、入塾中の宇津木
矩之允外三名の食事等の世話をしたが、平八郎居宅続の方の稽
古所に居る塾生の者共には一々面会しなかつたとある、さすれ
ば矩之允等四名は恐くは新塾の寄宿生で、両塾を併せて十数名
のの寄宿生は絶えずあつたらしい、但し塾生は必ず相当の年輩
に限つた訳ではなく、十歳前後で入舎した者も少くない、出稽
吉としては高槻や伊丹へ出掛けたやうである。
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元来町天満与力は一人五百坪の地面を賜はつたもので、多少
の相違はあるとしても、先づ之が与力一軒分の坪数であるから、
大塩邸の建坪は左様大したものではあるまい。玄関を上つて右
へ往けば塾、左へ往けば講堂、講堂の後が書斎、それから勝手
向となる。講堂を読礼堂、書斎を中斎といひ、講堂の西側には
王陽明が龍場の諸生に示せる立志・勧学・改過・責善の四篇を
掲げ、東側には呂新吾の格言十八條を掲げ、共に文政八年正月
十四日と記し、別に同年四月を以て謹書した銭緒山の天成篇を
掲げ掲出の場所不明、また勝手向には鏡中観花館と題する額が
あつて、塾生は之に出入することを許されなかつた。本箱は玄
関から講堂書斎へかけて二三段に積上げ、土蔵中には一切経も
あつた。塾は新塾旧塾の二つに分れ、旧塾は平八郎の居宅に続
き、新塾は東隣の空屋を補理つたもので可成手広く、こゝで武
芸の稽古をしたといふ。一説に塾は故・中・新の三つに分れ、
講堂即ち読礼堂のある所を故塾、中斎の書斎のある所を中塾、
東隣の旧宅を修理したものを新塾といふとある。之によれば上
文「玄関を上つて右へ往けば塾」とあるのは、新塾を指すやう
だが、新塾は平八郎居宅続きの旧塾とはどうも別棟らしく考へ
られる。然し何分大盛邸の間取園が無いから判然したことは分
らぬ。両塾を併せて十数人の寄宿生は絶えずゐたが、年輩不同
で、十歳前後で入舎した者も少くない。出稽吉としては高槻や
伊丹へ出掛けたやうである。
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