Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.12.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その70

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  四 学風 (1)
 改 訂 版
四 授業








読礼堂

中斎





鏡中観花館






新塾
旧塾



杉山三平

元来町天満与力は一人五百坪の地面を賜はつたもので、多少の 相違はあるとしても、先づ之が与力一軒分の坪数であるから、 大塩邸の建坪は左様大したものではあるまい、玄関を上つて右 へ往けば塾、左へ往けば講堂、講堂の後が書斎、それから勝手 向となる、講堂を読礼堂、書斎を中斎といひ、講堂の西側には 王陽明が龍場の諸生に示せる立志・勧学・改過・責善の四篇を 掲げ、東側には呂新吾の学に関する語十七條を掲げ、共に文政 八年正月十四日と記し、別に同年四月を以て謹書した銭緒山の 天成篇を掲げ(掲出の場所不明)、又勝手向には鏡中観花館と 題する額があつて、塾生は之に出入するを得ぬ。本箱は玄関か ら講堂書斎へかけて二三段に積上げ、土蔵中には一切経もあつ た、塾は新塾旧塾の二つに分れ、旧塾は平八郎の居宅に続き、 新塾は東隣の空屋を補理つたもので、天保八年二月頃旧塾に居 つた九名の人々は其姓名まで判然してゐる、大塩乱与党の一人 杉山三平の吟味書によると、三平はもと河内衣摺村の庄屋で熊 蔵といひ、不都合の事あつて村払となり、諸所流浪の後白井孝 右衛門の世話で是月七日から大塩邸に起臥し、入塾中の宇津木 矩之允外三名の食事等の世話をしたが、平八郎居宅続の方の稽 古所に居る塾生の者共には一々面会しなかつたとある、さすれ ば矩之允等四名は恐くは新塾の寄宿生で、両塾を併せて十数名 のの寄宿生は絶えずあつたらしい、但し塾生は必ず相当の年輩 に限つた訳ではなく、十歳前後で入舎した者も少くない、出稽 吉としては高槻や伊丹へ出掛けたやうである。

 元来町天満与力は一人五百坪の地面を賜はつたもので、多少 の相違はあるとしても、先づ之が与力一軒分の坪数であるから、 大塩邸の建坪は左様大したものではあるまい。玄関を上つて右 へ往けば塾、左へ往けば講堂、講堂の後が書斎、それから勝手 向となる。講堂を読礼堂、書斎を中斎といひ、講堂の西側には 王陽明が龍場の諸生に示せる立志・勧学・改過・責善の四篇を 掲げ、東側には呂新吾の格言十八條を掲げ、共に文政八年正月 十四日と記し、別に同年四月を以て謹書した銭緒山の天成篇を 掲げ掲出の場所不明、また勝手向には鏡中観花館と題する額が あつて、塾生は之に出入することを許されなかつた。本箱は玄 関から講堂書斎へかけて二三段に積上げ、土蔵中には一切経も あつた。塾は新塾旧塾の二つに分れ、旧塾は平八郎の居宅に続 き、新塾は東隣の空屋を補理つたもので可成手広く、こゝで武 芸の稽古をしたといふ。一説に塾は故・中・新の三つに分れ、 講堂即ち読礼堂のある所を故塾、中斎の書斎のある所を中塾、 東隣の旧宅を修理したものを新塾といふとある。之によれば上 文「玄関を上つて右へ往けば塾」とあるのは、新塾を指すやう だが、新塾は平八郎居宅続きの旧塾とはどうも別棟らしく考へ られる。然し何分大盛邸の間取園が無いから判然したことは分 らぬ。両塾を併せて十数人の寄宿生は絶えずゐたが、年輩不同 で、十歳前後で入舎した者も少くない。出稽吉としては高槻や 伊丹へ出掛けたやうである。


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