知行合一
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徳川氏初世の学者熊沢蕃山・野中兼山・貝原益軒の如きは皆躬
行実践を主眼としてゐる、後世の学者は或は身を終るまで経義
の解釈に齷齪し、或は半世を詩酒の間に放浪する者多く、仮令
其解釈は微を析き精に入り、其の詩文は鏘然として金玉の響を
発するにもせよ、躬行実践の点に至りては遥に先儒に及ばなか
つた、独り中斎は「書を読まば則ち心得躬行を貴ぶ」といつて、
詞章訓話を旨としてをる当時の儒家者流と全く反対の方面に出
た、彼は飽迄も知行合一を方針として進み、其陽明先生を祭る
の文に「鳴呼先生、豪傑にして聖賢、武略にして文章」といひ、
豪傑と聖賢と、武略と文章と、併せ有するを以て理想としてゐ
たので、箚記上巻の終に王学諸子鄒東廓・歐陽南野・羅念等
の事功を挙げたのを或人の詰れるに対し、是等の人々の功業節
義の道徳から出たを示す為で、学と道とを外にしてはいかで功
義節義の類を語らうぞ、と答へてゐるのも此趣意に外ならぬ、
要するに中斎は学問の目的を以て私欲を去り、道徳を明らかに
し、成敗利鈍を眼中に置かずして邁進するにありとし、詩文考
証を末なりとしたのであつた、されば中斎は己を持するに謹厳
であるのみならず、家族門人に対しても亦極て厳格であつた、
酒は飲めども少量に止り、碁将棋類は見向もせず、書籍の有場
所は一定し、何番の本箱の何辺に何々の書籍があるから持参せ
よと書生にいへば、其言葉の通に屹度あるし、格之助は出入共
に必ず慇懃に養父に告げ、養父の許に来客があれば、許を得ざ
る内は閾の中へ入つて挨拶を仕無かつたといふ、門人に対する
厳格さは下文洗心洞入学盟誓の條を見よ。
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徳川氏初世の学者熊沢蕃山・野中兼山・貝原益軒の如きは皆
躬行実践を主眼としてゐる。後世の学者は或は身を終るまで経
義の解釈に齷齪し、或は半世を詩酒の間に放浪する者多く、仮
令その解釈は微を析き精に入り、その詩文は鏘然として金玉の
響を発するにもせよ、躬行実践の点に至りては遥に先儒に及ば
なかつた。独り中斎は「書を読まば則ち心得躬行を貴ぶ」とい
つて、詞章訓話を旨として居る当時の儒家者流と全く反対の方
面に出た。彼は飽迄も知行合一を方針として進み、陽明先生を
祭るの文に「鳴呼先生、豪傑にして聖賢、武略にして文章」と
いひ、豪傑と聖賢と、武略と文章と、併せ有するを以て理想と
してゐたので、箚記上巻の終に王学諸子鄒東廓・歐陽南野・羅
念等の事功を挙げたのを或人の詰れるに対し、是等の人々の
功業節義の道徳から出たを示す為で、学と道とを外にしてはい
かで功義節義の類を語らうぞ、と答へてゐるのもこの趣意に外
ならぬ。要するに中斎は学問の目的を以て私欲を去り、道徳を
明らかにし、成敗利鈍を眼中に置かずして邁進するにありとし、
詩文考証を末なりとしたのであつた。されば中斎は己を持する
に謹厳であるのみならず、家族門人に対しても亦極めて厳格で
あつた。酒は飲めども少量に止まり、碁将棋類は見向もせず、
書籍の有場所は一定し、何番の本箱の何辺に何々の書籍がある
から持参せよと書生にいへば、言葉の通に屹度あつたといふ。
門人に対する厳格さは下文洗心洞入学盟誓の條を見よ。
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