Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.1.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その75

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  五 先輩交友 (1)
 改 訂 版


朱子学の流
行

三輪執斎歿後久しく絶えたる陽明学は、此の如くにして洗心洞中 幽深なる処より門弟に向つて、又天下に向つて唱へ出された、抑 も寛政年間異学の禁あつてより、朱子学は大風の曠野を吹捲る勢 で流行し、其間公々然として敢て異学を唱ふる者なく、佐藤一斎 の如きは、心竊に陽明の学を奉じながら、尚表面は朱子学を称し、 中斎から大学刮目の序文を依嘱せられた時、「拙序之義ハ御無用 被下度候」附録(一〇)と断り、刻本の箚記を受けた時の返事附録 (九)にも、姚江の書は元より読んだが、只自己の箴にする計で、 都ての教授は普通の宋説により、「殊に林氏家学も有之候へハ、 其碍ニも相成、人之疑惑を生し候事故、余り別説も唱不申候事ニ 候」と遁路を開いて居る、一斎は聖堂の教授、中斎は与力の隠居、 言はんと欲する所を言ひ、為さんと欲する所を為すに、一は左右 支吾する所多く、一は従横忌憚する所の無い身分であるが、而も 後者と雖も尚朱子文集を奉納するの跋に、「後素固より王子致知 の教を奉ずと雖も、朱子博約の訓に於て寧ぞ亦之を廃せんや」と いひ、必ずしも朱子学を非とするにあらざる由を述べ、其学名に 孔孟学の三字を標榜して居る所を見ると、当時の学界も略々推定 がつく。

 三輪執斎歿後久しく絶えた陽明学は、此の如くにして洗心洞中幽 深なる処から門弟に向つて、また天下に向つて唱へ出された。抑も 寛政年間異学の禁あつてより、朱子学は大風の曠野を吹捲くる勢で 流行し、その間公然として敢へて異学を唱ふる者なく、佐藤一斎の 如きは、心竊に陽明の学を奉じながら、尚表面は朱子学を称し、中 斎から刻本の箚記を受けた時の返書には、姚江の書は元より読んだ が、只自己の箴にする計で、都ての教授は普通の宋説により、 「殊に林氏家学も有之候へは、其碍にも相成、人の疑惑を生し候事 故、余り別説も唱不申候事に候」といひ、大学刮目の序文を依嘱せ られた時は、「拙序の義は御無用被下度候」と断つて居る。一斎は 聖堂の教授、中斎は与力の隠居、言はんと欲する所を言ひ、為さん と欲する所を為すに、一は左右支吾する所多く、一は従横忌憚する 所の無い身分である。然るに中斎と雖も朱子文集を奉納するに当つ ては、「固より王子致知の教を奉ずと雖も、朱子博約の訓に於て寧 ぞ亦之を廃せんや」といひ、必ずしも朱子学を非とするにあらざる 由を述べ、その学名に孔孟学の三字を標榜して居る所を見ると、当 時の学界も略々推定がつく。


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