朱子学の流
行
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三輪執斎歿後久しく絶えたる陽明学は、此の如くにして洗心洞中
幽深なる処より門弟に向つて、又天下に向つて唱へ出された、抑
も寛政年間異学の禁あつてより、朱子学は大風の曠野を吹捲る勢
で流行し、其間公々然として敢て異学を唱ふる者なく、佐藤一斎
の如きは、心竊に陽明の学を奉じながら、尚表面は朱子学を称し、
中斎から大学刮目の序文を依嘱せられた時、「拙序之義ハ御無用
被下度候」附録(一〇)と断り、刻本の箚記を受けた時の返事附録
(九)にも、姚江の書は元より読んだが、只自己の箴にする計で、
都ての教授は普通の宋説により、「殊に林氏家学も有之候へハ、
其碍ニも相成、人之疑惑を生し候事故、余り別説も唱不申候事ニ
候」と遁路を開いて居る、一斎は聖堂の教授、中斎は与力の隠居、
言はんと欲する所を言ひ、為さんと欲する所を為すに、一は左右
支吾する所多く、一は従横忌憚する所の無い身分であるが、而も
後者と雖も尚朱子文集を奉納するの跋に、「後素固より王子致知
の教を奉ずと雖も、朱子博約の訓に於て寧ぞ亦之を廃せんや」と
いひ、必ずしも朱子学を非とするにあらざる由を述べ、其学名に
孔孟学の三字を標榜して居る所を見ると、当時の学界も略々推定
がつく。
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三輪執斎歿後久しく絶えた陽明学は、此の如くにして洗心洞中幽
深なる処から門弟に向つて、また天下に向つて唱へ出された。抑も
寛政年間異学の禁あつてより、朱子学は大風の曠野を吹捲くる勢で
流行し、その間公然として敢へて異学を唱ふる者なく、佐藤一斎の
如きは、心竊に陽明の学を奉じながら、尚表面は朱子学を称し、中
斎から刻本の箚記を受けた時の返書には、姚江の書は元より読んだ
が、只自己の箴にする計で、都ての教授は普通の宋説により、
「殊に林氏家学も有之候へは、其碍にも相成、人の疑惑を生し候事
故、余り別説も唱不申候事に候」といひ、大学刮目の序文を依嘱せ
られた時は、「拙序の義は御無用被下度候」と断つて居る。一斎は
聖堂の教授、中斎は与力の隠居、言はんと欲する所を言ひ、為さん
と欲する所を為すに、一は左右支吾する所多く、一は従横忌憚する
所の無い身分である。然るに中斎と雖も朱子文集を奉納するに当つ
ては、「固より王子致知の教を奉ずと雖も、朱子博約の訓に於て寧
ぞ亦之を廃せんや」といひ、必ずしも朱子学を非とするにあらざる
由を述べ、その学名に孔孟学の三字を標榜して居る所を見ると、当
時の学界も略々推定がつく。
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