天満風の我
儘学問
旅行
交友門人は
少数
佐藤一斎
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縦令孔孟学の幟を押立てゝも、中斎が陽明学者であることは何人
の眼にも直ちに映ずる、頑固なる朱子学者より見れば、中斎の唱
ふる所は異端雑説である、また軽薄なる詩人から見れば、彼は詩
酒徴逐の風流を解せぬ木強漢である、当代の学者文人が多くは彼
に対して敬遠主義を取り、而も竊に「天満風の我儘学問」なる罵
倒を浴せかけた理由は、之を解するに毫も苦心を要せぬ、而して
中斎自身も亦漫に人に交を求めず、間居読書を好む風があり、旅
行といへば天保元年九月名古屋の大塩氏本家を訪ひ、先祖の墓を
拝し、十一月二日を以て帰阪したこと、山陽の文によると帰路龍
田・高雄・栂尾の勝を探るとあるが、これは当初の予定で、果し
て実行されたか不明である、大塩家では代々本家へ往つて家康よ
り拝領の弓を拝見する例であつた、同三年六月江州小川村に藤樹
先生の遺跡を尋ね、帰路大溝から船で坂本に向ひ、風波の難に罹
り辛うじて上陸したこと、同四年七月十七日富士山に登り、箚記
を石室に蔵め、帰路吉田から海を渡つて山田に往き、林崎宮崎両
文庫に箚記を納めたこと位で、従つて交友門人は極めて少数であ
つたと思はれる、尤も挙兵以後彼と友人又は師弟の関係ありとい
ふが為に、徒に他人の嫌疑を招くをと恐れて、その友人たり門人
たるを隠した者もあらうが、先づ洗心洞箚記附録抄によつて先輩
友人を数へると、巻頭に載せてあるのは佐籐一斎の手紙の模刻だ。
佐藤一斎 名は坦、字は大道、通称捨蔵、愛日楼また老吾軒と
号し、大阪にては懐徳書院、江戸にては林家に学び、天保四年中
斎が箚記を贈つた時は六十二歳の老先生であつた、中斎が箚記に
添へた尺牘附録(八)には殆ど一斎を師の如く仰いであるが、一斎
の返事も亦頗る慇懃で、「御年齢強壮之御事、此後幾層御長進可
有之歟。不可測と御頼敷存候事故、申迄も無之、愈益御深造之処
翹望に堪す候」附録(九)と奨励して居る、但し両人は遂に相見る
機会が無かつたのである。
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縦令孔孟学の幟を押立てゝも、中斎が陽明学者であることは何
人の眼にも直ちに映ずる。頑固な朱子学者から見れば、中斎の唱
ふる所は異端雑説である。また軽薄な詩人から見れば、彼は詩酒
徴逐の風流を解せぬ木強漢である。当代の学者文人が多くは彼に
対して敬遠主義を取り、而も竊に「天満風の我儘学問」なる罵倒
を浴せかけた理由は、之を解するに難からぬ。而して中斎自身も
亦漫に人に交を求めず、旅行といへば天保元年九月及び十月名古
屋の大塩氏宗家を訪うたこと、同三年六月江州小川村に藤樹先生
の遣蹟を尋ね、帰路大溝から船で坂本に向ひ、風波の難に罹つた
こと四年九月藤樹書院に大学首章を講じ、五年九月また孝経を講
ず同四年七月富士山に上り、箚記を石室に収め、海を渡つて山田
に往き、林崎豊宮崎両文庫に箚記を納め、津を経て帰つたこと五
年二月再び伊勢に行き、林崎文庫に古本大学致知格物の本義を講
じ、六年五月三たび伊勢に遊ぶ同五年三月摂播の山水を
遊覧したこと、同年九月岡山に行き、熊沢蕃山の遺蹟を尋ねて閑
谷黌を視た位である。従つて交友門人は少数であつたと思はれる、
尤も挙兵以後彼と友人又は師弟の関係があつたといへば、嫌疑を
招きはせぬかと恐れて、その友人たり門人たるを隠した者もあつ
たらう。茲に洗心洞箚記附録抄によつて先輩友人を数へよう。同
書の巻頭にあるのは佐籐一斎の手紙の模刻だ。
佐藤一斎 名は坦、字は大道、通称捨蔵、愛日楼また老吾軒と
号す。大阪では懐徳書院、江戸では林家に学び、天保四年中斎が
箚記を贈つた時は六十二歳の老先生であつた。中斎が箚記に添へ
た尺牘には殆ど一斎を師の如く仰いであるが、一斎の返事も亦頗
る慇懃で、「御年齢強壮の御事、此後幾層御長進可有之歟。不可
測と御頼敷存候事故、申迄も無之、愈益御深造の処翹望に堪す候」
と奨励して居る。但し両人は遂に相見る機会が無かつた。
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