Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.1.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その76

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  五 先輩交友 (2)
 改 訂 版










天満風の我
儘学問


旅行














交友門人は
少数









佐藤一斎

縦令孔孟学の幟を押立てゝも、中斎が陽明学者であることは何人 の眼にも直ちに映ずる、頑固なる朱子学者より見れば、中斎の唱 ふる所は異端雑説である、また軽薄なる詩人から見れば、彼は詩 酒徴逐の風流を解せぬ木強漢である、当代の学者文人が多くは彼 に対して敬遠主義を取り、而も竊に「天満風の我儘学問」なる罵 倒を浴せかけた理由は、之を解するに毫も苦心を要せぬ、而して 中斎自身も亦漫に人に交を求めず、間居読書を好む風があり、旅 行といへば天保元年九月名古屋の大塩氏本家を訪ひ、先祖の墓を 拝し、十一月二日を以て帰阪したこと、山陽の文によると帰路龍 田・高雄・栂尾の勝を探るとあるが、これは当初の予定で、果し て実行されたか不明である、大塩家では代々本家へ往つて家康よ り拝領の弓を拝見する例であつた、同三年六月江州小川村に藤樹 先生の遺跡を尋ね、帰路大溝から船で坂本に向ひ、風波の難に罹 り辛うじて上陸したこと、同四年七月十七日富士山に登り、箚記 を石室に蔵め、帰路吉田から海を渡つて山田に往き、林崎宮崎両 文庫に箚記を納めたこと位で、従つて交友門人は極めて少数であ つたと思はれる、尤も挙兵以後彼と友人又は師弟の関係ありとい ふが為に、徒に他人の嫌疑を招くをと恐れて、その友人たり門人 たるを隠した者もあらうが、先づ洗心洞箚記附録抄によつて先輩 友人を数へると、巻頭に載せてあるのは佐籐一斎の手紙の模刻だ。  佐藤一斎 名は坦、字は大道、通称捨蔵、愛日楼また老吾軒と 号し、大阪にては懐徳書院、江戸にては林家に学び、天保四年中 斎が箚記を贈つた時は六十二歳の老先生であつた、中斎が箚記に 添へた尺牘附録(八)には殆ど一斎を師の如く仰いであるが、一斎 の返事も亦頗る慇懃で、「御年齢強壮之御事、此後幾層御長進可 有之歟。不可測と御頼敷存候事故、申迄も無之、愈益御深造之処 翹望に堪す候」附録(九)と奨励して居る、但し両人は遂に相見る 機会が無かつたのである。

 縦令孔孟学の幟を押立てゝも、中斎が陽明学者であることは何 人の眼にも直ちに映ずる。頑固な朱子学者から見れば、中斎の唱 ふる所は異端雑説である。また軽薄な詩人から見れば、彼は詩酒 徴逐の風流を解せぬ木強漢である。当代の学者文人が多くは彼に 対して敬遠主義を取り、而も竊に「天満風の我儘学問」なる罵倒 を浴せかけた理由は、之を解するに難からぬ。而して中斎自身も 亦漫に人に交を求めず、旅行といへば天保元年九月及び十月名古 屋の大塩氏宗家を訪うたこと、同三年六月江州小川村に藤樹先生 の遣蹟を尋ね、帰路大溝から船で坂本に向ひ、風波の難に罹つた こと四年九月藤樹書院に大学首章を講じ、五年九月また孝経を講 ず同四年七月富士山に上り、箚記を石室に収め、海を渡つて山田 に往き、林崎豊宮崎両文庫に箚記を納め、津を経て帰つたこと五 年二月再び伊勢に行き、林崎文庫に古本大学致知格物の本義を講 じ、六年五月三たび伊勢に遊ぶ同五年三月摂播の山水を 遊覧したこと、同年九月岡山に行き、熊沢蕃山の遺蹟を尋ねて閑 谷黌を視た位である。従つて交友門人は少数であつたと思はれる、 尤も挙兵以後彼と友人又は師弟の関係があつたといへば、嫌疑を 招きはせぬかと恐れて、その友人たり門人たるを隠した者もあつ たらう。茲に洗心洞箚記附録抄によつて先輩友人を数へよう。同 書の巻頭にあるのは佐籐一斎の手紙の模刻だ。  佐藤一斎 名は坦、字は大道、通称捨蔵、愛日楼また老吾軒と 号す。大阪では懐徳書院、江戸では林家に学び、天保四年中斎が 箚記を贈つた時は六十二歳の老先生であつた。中斎が箚記に添へ た尺牘には殆ど一斎を師の如く仰いであるが、一斎の返事も亦頗 る慇懃で、「御年齢強壮の御事、此後幾層御長進可有之歟。不可 測と御頼敷存候事故、申迄も無之、愈益御深造の処翹望に堪す候」 と奨励して居る。但し両人は遂に相見る機会が無かつた。


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