林述斎 中斎の尺牘中に「祭酒林公も亦僕を愛するの人なり」
とある、此林祭酒は年代から推して大学頭林述斎名は衡字は徳詮
であることは疑ないが、中斎の江戸遊学を否定した上は、両者の
タユヒノシヤウセンリ
関係は何様して結ばれたか、中斎門人の田結荘千里の話によると、
ハッタヱモンタラウ
林家用金の調達に起因したらしい、或時平八郎が同僚八田衛門太
郎を訪ふと、前刻より其席に居たのが林家の用人で、今度林家に
て家政改革をする故、大阪表で千両の頼母子講を作つてくけろと、
衛門太郎に相談をして居る所であつた、平八郎は之を聞き、さて
案外の企を承るものかな、他に洩れては乍憚林家の外聞にも拘り
申さう、右金額は拙者調達仕るにつき、頼母子講は御断念下され
たく、明朝辰刻前後に御出下さるならば、金子は其節お渡し申す
と言切つたので、用人は雀躍する計の喜悦、何分宜しくとのみで
別れ、平八郎は直様金穴の門弟三人を呼び、委細を話して金子を
調へ待受けて居ると、果して彼の用人は時刻を違つて来た、其所
で千両の金子を渡し、伝手に大学頭殿の御土産として御聞に入れ
るものがあると、塾生十余名を召出し、用人の前にて経文を暗誦
せしめしに、孰は滞なく済したので、用人は只管恐縮し、千万厚
誼を謝して江戸に還つたといふ事である、
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