川北重熹
大友参
吉村晋
宇津木泰交
平松正愨
猪飼敬所
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川北重熹 通称喜右衛門、島原藩の儒臣、中斎とは一面識も無い、
併し屡々京摂の間を往来し、横山生を介して刺を通ぜんと欲したとあ
るから、横山生は中斎に懇意な者であつたと見えるが、其履歴は詳で
ない。
大友参 号は遠霞、筑前の人、嘗て上国に在り、中斎の名声を聞き、
刺を通ぜんとして遂に得ずとあれば、之も亦書面の往復に止まつてゐ
る。
吉村晋 通称隆助、字は麗明、号は秋陽、芸州の人、本姓は小田氏、
一斎の門人にて陽明学を奉じ、慶応二年十一月七十歳を以て歿した。
宇津木泰交 俗名下総、彦根藩老臣にて同苗矩之允の実兄である。
平松正愨 通称之助、後に喜蔵、字は子愿、楽斎と号す、津藩
の臣、これは伊勢の両文庫に箚記わ奉納した帰路、中斎の方から訪問
した、天保八年二月廿五日付の猪飼敬所の手紙に、「貴兄去年大塩方
に御逗留の様子」とあるが委細は解らぬ。
猪飼敬所 名は彦博、字は希文、敬所と号し、宝暦十一年京都に生
る、三冊本の儒門空虚聚語の欄外には此人の校訂が出て居る、天保八
年四月敬所から三谷謙譲に与へた手紙に、「大塩平八、一昨年夏儒門
空虚聚語校讐記を附し、老拙を嘲り、且其以前洗心洞箚記中に、彼が
学術に係らずして甚誤候三事を申遣し、能容人言や否を試ミ候処、初
秋以書状其非を文り、且以狡猾之詞欲鉗二老拙の口、老拙不勝棒腹、
励言これに答候、其後絶交候」とある。
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川北重熹 通称喜右衛門、島原藩の儒臣。中斎とは一面識も無い。
併し屡々京摂の間を往来し、横山生を介して刺を通ぜんと欲したとあ
るから、横山生は中斎に懇意な者であつたと見える。
大友参 号は遠霞、筑前の人。嘗て上国に在り、中斎の名声を聞き、
刺を通ぜんとして遂に得ずとあれば、之も亦書面の往復に止まつてゐ
る。
吉村晋 通称隆助、字は麗明、号は秋陽、芸州の人。本姓は小田氏。
一斎の門人にて陽明学を奉じ、慶応二年十一月七十歳を以て歿した。
宇津木泰交 通租下総、彦根藩老臣にて同苗矩之允の実兄である。
平松正愨 通称之助、後に喜蔵、名は正愨、字は子愿、津藩の
臣。格之助の結婚式に祝物を贈つてゐる所から考へると、余程親しく
交際したらしい。天保八年二月廿五日付の猪飼敬所の手紙に、「貴兄
去年大塩方に御逗留の様子」とあるが委細は解らぬ。
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