Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.2.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その82

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  五 先輩交友 (7)
 改 訂 版

足代弘訓 




































福井晋

阿部伯孝

 足代弘訓 津の拙堂楽斎等を挙ぐれば、山田に弘訓あるを逸しては ならぬ、弘訓通称は権太夫、号は寛居、伊勢外宮の御師なり、「拙者 義十歳頃より近代の軍記をこのみ、十四より学問に志し、歌をよみ申 候、二十頃三十頃はいはゆる偏固の田舎天狗に御座候所、追々有名の 人々に交り候後、段々志下り、唯今にては白髪の老書生に御座候」、 と自ら嘲つて居る位故、余程覇気に富んだ交際の広い人であつたらし い、天保四年中斎に勧めて箚記を両文庫に奉納せしめ、同七年十月同 職安田図書を紹介して洗心洞塾に入らしめたは弘訓で、箚記附録抄に ある山陽の序は、当世に憚る所あつて数十字抹殺の箇所があるが、先 年井上博士は其全文を弘訓の遺書中から発見せられた位故、中斎とは 随分親密の間柄であつたと思ふ、評定所の吟味書に、弘訓は天保四年 出阪の砌知己となり、同六年中斎来勢の節、天竺には釈迦、漢土には 孔子あれども、日本には未だ聖人なし、某兼々修学悟道いたし、近々 聖人と為るべき所存なるにより、心力を注いで作つた箚記を朝熊岳に 焼捨てくれよ、然らばその煙天に通じ、愈々聖人と為るべしとの話を 聞き、奇怪の申分、発狂したのでは無いかと思ひ、其後は往復も打絶 え、彼の安田図書を紹介したのも、全く図書の懇望によつたのだとあ るが、之は幾分事実を曲げたものと信ずる、敬所弘訓の氏名は附録抄 に在るのでは無い。  福井晋 通称近江、禁裏付の医師福井丹波守の子息。  阿部伯孝 尾張藩の人。

 福井晋 通称近江、禁裏付の医師福井丹波守の子息。  阿部伯孝 通称富三郎、松園と号す。尾張藩の人。


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