足代弘訓
福井晋
阿部伯孝
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足代弘訓 津の拙堂楽斎等を挙ぐれば、山田に弘訓あるを逸しては
ならぬ、弘訓通称は権太夫、号は寛居、伊勢外宮の御師なり、「拙者
義十歳頃より近代の軍記をこのみ、十四より学問に志し、歌をよみ申
候、二十頃三十頃はいはゆる偏固の田舎天狗に御座候所、追々有名の
人々に交り候後、段々志下り、唯今にては白髪の老書生に御座候」、
と自ら嘲つて居る位故、余程覇気に富んだ交際の広い人であつたらし
い、天保四年中斎に勧めて箚記を両文庫に奉納せしめ、同七年十月同
職安田図書を紹介して洗心洞塾に入らしめたは弘訓で、箚記附録抄に
ある山陽の序は、当世に憚る所あつて数十字抹殺の箇所があるが、先
年井上博士は其全文を弘訓の遺書中から発見せられた位故、中斎とは
随分親密の間柄であつたと思ふ、評定所の吟味書に、弘訓は天保四年
出阪の砌知己となり、同六年中斎来勢の節、天竺には釈迦、漢土には
孔子あれども、日本には未だ聖人なし、某兼々修学悟道いたし、近々
聖人と為るべき所存なるにより、心力を注いで作つた箚記を朝熊岳に
焼捨てくれよ、然らばその煙天に通じ、愈々聖人と為るべしとの話を
聞き、奇怪の申分、発狂したのでは無いかと思ひ、其後は往復も打絶
え、彼の安田図書を紹介したのも、全く図書の懇望によつたのだとあ
るが、之は幾分事実を曲げたものと信ずる、敬所弘訓の氏名は附録抄
に在るのでは無い。
福井晋 通称近江、禁裏付の医師福井丹波守の子息。
阿部伯孝 尾張藩の人。
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福井晋 通称近江、禁裏付の医師福井丹波守の子息。
阿部伯孝 通称富三郎、松園と号す。尾張藩の人。
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