Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.2.19

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その83

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  五 先輩交友 (9)
 改 訂 版


頼山陽  

 頼山陽 附録抄の終に山陽の文一篇と詩六首とを載せてあるが、之 を収録するに至つた次第は、天保五年八月中斎自記の一篇によつて明 である、詩六首は山陽が中斎から借りた陽明全書を返す時、読史管見 を借りた時、再三懇望した趙子壁の芦雁図を贈られた時、紛失した菅 茶山の遣愛の杖を捜索して貰つた時、日本外史一部を中斎に贈つた返 礼として月山作の九寸有余の短刀を貫つた時、並に中斎の留守中其書 斎に入つて随意に読書するを許された時に詠した七言絶句・七言古体・ 又は五言古詩等で、文一篇は中斎の尾張に適くを送るの序附録(七) である。この序文中時事を暴露して忌憚する所なく、且つその辞職を 称し、再び「とに就くべからず」と戒めた所は、尤も中斎の意を 得たもので、「我を知るは山陽に若く莫し」と叫ばしめた所以である、 天保三年四月山陽京都より下り、右古本大学刮目の稿本を読んで背之 に序せんといひ、又篠崎小竹を介して中斎を訪ふたは文政七年三月が 最初で、天保三年四月洗心洞に会し、『古本大学刮目』の稿本を読ん で之に序せんといひ、又箚記若干條を読み、上木の暁必ず之を批評す るの約を結んだが、其秋山陽は病死し、中斎は彼が易簀の日に京師に 上つたが、終に臨終に間に合はず、大哭して帰り、往事を追思して、 夢の如く幻の如く覚えたといふは無理ならぬことで、翌年四月山陽の 子余一が江戸より安芸へ帰る途中、洗心洞を訪うた時、箚記一部を与 へ、吾心は猶山陽に贈るが如しと言つて居る、山陽と中斎と一見相容 れざるが如くにして、然も両者の往来送迎綿々として絶えなかつたは 事実である、彼は此を認めて小陽明といひ、此は彼の胆と識とを多と したので、山陽の「君観吾心吾佩君心、百歳不蠹又不折」とは、いか にも巧に言ひ得た辞句である。

 頼山陽 附録抄の終に山陽の文一篇と詩六首とを載せてあるが、之 を収録するに至つた次第は、天保五年八月中斎自記の一篇によつて明 らかである、詩六首は山陽が中斎から借りた陽明全書を返す時、読史 管見を借りた時、再三懇望した趙子壁の芦雁図を贈られた時、紛失し た菅茶山の遣愛の杖を捜索して貰つた時、日本外史一部を中斎に贈つ た返礼として月山作の九寸有余の短刀を貫つた時、及び中斎の留守中 その書斎に入つて随意に読書するを許された時に詠じた七言絶句・七 言古体・又は五言古詩等で、文一篇は中斎の尾張に適くを送るの序附 録(二)である。この序文中時事を暴露して忌憚する所なく、且つそ           コゴテ ホダシ の辞職を称し、「再びとに就くべからず」と戒めた所は、尤 も中斎の意を得たもので、「我を知るは山陽に若く莫し」と叫ばしめた 所以である。山陽が京都から下り、篠崎小竹を介して中斎を訪ふたは文 政七年三月が最初で、天保三年四月洗心洞に会し、古本大学刮目の稿本 を読んで之に序せんといひ、又箚記若干條を読み、上木の暁必ず之を批 評せんと約したのが最後で、その秋九月山陽は病死し、中斎は彼が易簀 の日に京師に上つたが、終に臨終に間に合はず、大哭して帰り、往事を 追思して、夢の如く幻の如く覚えたといふは無理ならぬ。翌四年四月山 陽の子聿斎余一が江戸より安芸へ帰る途中、洗心洞を訪うた時、箚記一 部を与へ、吾心は猶山陽に贈るが如しと言つて居る。山陽と中斎と一見 相容れざるが如くにして、然も両者の往来送迎綿々として絶えなかつた は事実である。彼は此を認めて小陽明といひ、此は彼の胆と識とを多と したので、山陽の「君観吾心、吾佩君心、百歳不蠹又不折」とは、いか にも巧に言ひ得た辞句である。


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