頼山陽
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頼山陽 附録抄の終に山陽の文一篇と詩六首とを載せてあるが、之
を収録するに至つた次第は、天保五年八月中斎自記の一篇によつて明
である、詩六首は山陽が中斎から借りた陽明全書を返す時、読史管見
を借りた時、再三懇望した趙子壁の芦雁図を贈られた時、紛失した菅
茶山の遣愛の杖を捜索して貰つた時、日本外史一部を中斎に贈つた返
礼として月山作の九寸有余の短刀を貫つた時、並に中斎の留守中其書
斎に入つて随意に読書するを許された時に詠した七言絶句・七言古体・
又は五言古詩等で、文一篇は中斎の尾張に適くを送るの序附録(七)
である。この序文中時事を暴露して忌憚する所なく、且つその辞職を
称し、再び「 と とに就くべからず」と戒めた所は、尤も中斎の意を
得たもので、「我を知るは山陽に若く莫し」と叫ばしめた所以である、
天保三年四月山陽京都より下り、右古本大学刮目の稿本を読んで背之
に序せんといひ、又篠崎小竹を介して中斎を訪ふたは文政七年三月が
最初で、天保三年四月洗心洞に会し、『古本大学刮目』の稿本を読ん
で之に序せんといひ、又箚記若干條を読み、上木の暁必ず之を批評す
るの約を結んだが、其秋山陽は病死し、中斎は彼が易簀の日に京師に
上つたが、終に臨終に間に合はず、大哭して帰り、往事を追思して、
夢の如く幻の如く覚えたといふは無理ならぬことで、翌年四月山陽の
子余一が江戸より安芸へ帰る途中、洗心洞を訪うた時、箚記一部を与
へ、吾心は猶山陽に贈るが如しと言つて居る、山陽と中斎と一見相容
れざるが如くにして、然も両者の往来送迎綿々として絶えなかつたは
事実である、彼は此を認めて小陽明といひ、此は彼の胆と識とを多と
したので、山陽の「君観吾心吾佩君心、百歳不蠹又不折」とは、いか
にも巧に言ひ得た辞句である。
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頼山陽 附録抄の終に山陽の文一篇と詩六首とを載せてあるが、之
を収録するに至つた次第は、天保五年八月中斎自記の一篇によつて明
らかである、詩六首は山陽が中斎から借りた陽明全書を返す時、読史
管見を借りた時、再三懇望した趙子壁の芦雁図を贈られた時、紛失し
た菅茶山の遣愛の杖を捜索して貰つた時、日本外史一部を中斎に贈つ
た返礼として月山作の九寸有余の短刀を貫つた時、及び中斎の留守中
その書斎に入つて随意に読書するを許された時に詠じた七言絶句・七
言古体・又は五言古詩等で、文一篇は中斎の尾張に適くを送るの序附
録(二)である。この序文中時事を暴露して忌憚する所なく、且つそ
コゴテ ホダシ
の辞職を称し、「再び と とに就くべからず」と戒めた所は、尤
も中斎の意を得たもので、「我を知るは山陽に若く莫し」と叫ばしめた
所以である。山陽が京都から下り、篠崎小竹を介して中斎を訪ふたは文
政七年三月が最初で、天保三年四月洗心洞に会し、古本大学刮目の稿本
を読んで之に序せんといひ、又箚記若干條を読み、上木の暁必ず之を批
評せんと約したのが最後で、その秋九月山陽は病死し、中斎は彼が易簀
の日に京師に上つたが、終に臨終に間に合はず、大哭して帰り、往事を
追思して、夢の如く幻の如く覚えたといふは無理ならぬ。翌四年四月山
陽の子聿斎余一が江戸より安芸へ帰る途中、洗心洞を訪うた時、箚記一
部を与へ、吾心は猶山陽に贈るが如しと言つて居る。山陽と中斎と一見
相容れざるが如くにして、然も両者の往来送迎綿々として絶えなかつた
は事実である。彼は此を認めて小陽明といひ、此は彼の胆と識とを多と
したので、山陽の「君観吾心、吾佩君心、百歳不蠹又不折」とは、いか
にも巧に言ひ得た辞句である。
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