篠崎小竹
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篠崎小竹 山陽をいへば直ちに小竹を聯想する。小竹は篠崎三島の
養子で通称を長左衛門、名を弼、字を承弼といひ、「儒中の鴻池」と
称せられた、小竹と山陽とは別懇の間柄である故、小竹中斎間に交通
があつたことは疑ない、乱後小竹が坂本鉉之助に向ひ、中斎の学問筋
は己が心より思付くことを皆良知より出づると思ひ、次第に驕慢に傾
いたは、丁度某富商が茶道に耽り、段々高価なる茶器を求め、名物の
茶碗一箇を抱いて終に其家を滅したやうなものだと話した時、鉉之助
が富商の説は如何にも御尤、併しそれに就いては小竹子も少しく罪あ
り、其子細は中斎とは年来学問上の御交ありながら、彼が申す説を是
非邪正の批判教諭もなく、その儘に避けて通されたはいかゞ。浪華に
て小竹先生すら此の如くなれば、他に頭を押へるものはなしと、驕慢
の念愈々増長せしなるべし、さすれば中斎の驕慢を増長させたる罪は、
小竹子遁れ難かるべしと言ひ、互に一笑したと咬菜秘記に見える。
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篠崎小竹 山陽をいへば直ちに小竹を聯想する。小竹は篠崎三島の
養子、通称を長左衛門、名を弼、字を承弼といひ、「儒中の鴻池」と
称せられた。乱後小竹が坂本鉉之助に向ひ、中斎の学問筋は己が心よ
り思付くことを皆良知より出づると思ひ、次第に驕慢に傾いたは、丁
度某富商が茶道に耽り、段々高価な茶器を求め、名物の茶碗一箇を抱
いて終に其家を滅したやうなものだと話した時、鉉之助が富商の説は
如何にも御尤、併しそれに就いては小竹子も少しく罪あり。その子細
は中斎とは年来学問上の御交ありながら、彼が申す説を是非邪正の批
判教諭もなく、その儘に避けて通されたはいかゞ、浪華にて小竹先生
すら此の如くなれば、他に頭を押へるものはなしと、驕慢の念愈々増
長せしなるべし。さすれば中斎の驕慢を増長させたる罪は、小竹子遁
れ難かるべしと言ひ、互に一笑したと咬菜秘記に見える。
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