矢部定謙
|
サダカタ
矢部駿河守 名は定謙、天保四年七月より同七年九月まで西町奉行
を勤め、在職中淀川の浚渫浚渫の土砂を積みしもの即ち天保山なり火
刑の改正等を行ひ、名奉行の美名を残した人で、予は在職中度々隠居
の平八郎を招寄せて密事を談じ、又自己の過失をも聞き、少からざる
カナガシラ
益を得た。或日会食をした時、平八郎忠憤の余我を忘れて金頭といふ
魚を、頭から尾までワリ\/と噛砕いたことがある、それを見て用人
某が、彼は狂人である、ゆめ\/お近附あるなと諌めたが、予は汝等
の知る所にあらずと斥けて始終交を全うした、と東湖随筆にある、吉
見九郎右衛門の吟味書中に、「先役の奉行え編集の書籍差出、右挨拶
として衣類等貰請、又は同役共を以御用筋之儀尋請候儀も有之、其時
々心底を不残申立快然之由」、中斎が物語つとあるが、此所に先役の
奉行とあるのは多分駿河守の事であらう。跡部山城守が赴任の時、町
奉行としての心掛を駿河守に尋ねたら、与力の隠居に大塩平八郎なる
者がある、悍馬の如き性質故、巧に之を御せば充分御用に立つ人物、
去り乍ら強ひて奉行の威を以て臨まれなば、危きこと申す迄も候はず
と告げたとは、名吏の眼光敬服に値する、之を前にしては高井山城守、
之を後にしては矢部駿河守、奉行として能く平八郎を見抜いたは此両
人のみである。
|
サダカタ
矢部駿河守 名は定謙、天保四年七月より同七年九月まで大阪西町
奉行を勤め、在職中淀川の浚渫浚渫の土砂を積みしもの即ち天保山な
り火刑の改正等を行ひ、名奉行と言はれた人である。東湖随筆に駿河
守の話として、予は在職中度々隠居の平八郎を招寄せて密事を談じ、
又自己の過失をも聞き、少からざる益を得た。或日平八郎と会食した
カナガシラ
時、同人忠憤の余、我を忘れて金頭といふ魚を、頭から尾までワリ\
/と噛砕いたことがある。それを見て用人某が、彼は狂人である、ゆめ
\/お近附あるなと諌めたが、予は汝等の知る所にあらずと斥けて始終
交を全うしたとある。吉見九郎右衛門の吟味書中に、「先役の奉行え編
集の書籍差出、右挨拶として衣類等貰請、又は同役共を以御用筋の儀尋
請候儀も有之、其時々心底を不残申立快然之由」、中斎が物語つたとあ
るが、先役の奉行といふのは多分駿河守の事であらう。跡部山城守良弼
が大阪東町奉行就任の時、町奉行としての心掛を駿河守に尋ねたら、与
力の隠居に大塩平八郎なる者がある。悍馬の如き性質故、巧に之を御せ
ば充分御用に立つ人物、去り乍ら強ひて奉行の威を以て臨まれなば、危
きこと申す迄も候はずと告げたと、之を前にしては高井山城守、之を後
にしては矢部駿河守、奉行として能く平八郎を見抜いたはこの両人のみ
である。
|