Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.2.27

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その86

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  五 先輩交友 (12)
 改 訂 版



矢部定謙 

         サダカタ  矢部駿河守 名は定謙、天保四年七月より同七年九月まで西町奉行 を勤め、在職中淀川の浚渫浚渫の土砂を積みしもの即ち天保山なり火 刑の改正等を行ひ、名奉行の美名を残した人で、予は在職中度々隠居 の平八郎を招寄せて密事を談じ、又自己の過失をも聞き、少からざる                           カナガシラ 益を得た。或日会食をした時、平八郎忠憤の余我を忘れて金頭といふ 魚を、頭から尾までワリ\/と噛砕いたことがある、それを見て用人 某が、彼は狂人である、ゆめ\/お近附あるなと諌めたが、予は汝等 の知る所にあらずと斥けて始終交を全うした、と東湖随筆にある、吉 見九郎右衛門の吟味書中に、「先役の奉行え編集の書籍差出、右挨拶 として衣類等貰請、又は同役共を以御用筋之儀尋請候儀も有之、其時 々心底を不残申立快然之由」、中斎が物語つとあるが、此所に先役の 奉行とあるのは多分駿河守の事であらう。跡部山城守が赴任の時、町 奉行としての心掛を駿河守に尋ねたら、与力の隠居に大塩平八郎なる 者がある、悍馬の如き性質故、巧に之を御せば充分御用に立つ人物、 去り乍ら強ひて奉行の威を以て臨まれなば、危きこと申す迄も候はず と告げたとは、名吏の眼光敬服に値する、之を前にしては高井山城守、 之を後にしては矢部駿河守、奉行として能く平八郎を見抜いたは此両 人のみである。

         サダカタ  矢部駿河守 名は定謙、天保四年七月より同七年九月まで大阪西町 奉行を勤め、在職中淀川の浚渫浚渫の土砂を積みしもの即ち天保山な り火刑の改正等を行ひ、名奉行と言はれた人である。東湖随筆に駿河 守の話として、予は在職中度々隠居の平八郎を招寄せて密事を談じ、 又自己の過失をも聞き、少からざる益を得た。或日平八郎と会食した               カナガシラ 時、同人忠憤の余、我を忘れて金頭といふ魚を、頭から尾までワリ\ /と噛砕いたことがある。それを見て用人某が、彼は狂人である、ゆめ \/お近附あるなと諌めたが、予は汝等の知る所にあらずと斥けて始終 交を全うしたとある。吉見九郎右衛門の吟味書中に、「先役の奉行え編 集の書籍差出、右挨拶として衣類等貰請、又は同役共を以御用筋の儀尋 請候儀も有之、其時々心底を不残申立快然之由」、中斎が物語つたとあ るが、先役の奉行といふのは多分駿河守の事であらう。跡部山城守良弼 が大阪東町奉行就任の時、町奉行としての心掛を駿河守に尋ねたら、与 力の隠居に大塩平八郎なる者がある。悍馬の如き性質故、巧に之を御せ ば充分御用に立つ人物、去り乍ら強ひて奉行の威を以て臨まれなば、危 きこと申す迄も候はずと告げたと、之を前にしては高井山城守、之を後 にしては矢部駿河守、奉行として能く平八郎を見抜いたはこの両人のみ である。


「大塩平八郎」目次2/ その85/その87

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ