坂本鉉之助
柴田勘兵衛
近藤守重
|
坂本鉉之助 玉造口与力、名は俊貞、字は叔幹、鼎斎また咬菜軒と
号し、荻野流の砲術の達人で、大塩乱の時には同心支配を勤めてゐた、
同僚柴田勘兵衛が平八郎の槍術の師匠である所から、交際を始めたの
で、同僚大井伝次兵衛を説き、其忰正一郎を洗心洞塾に入塾せしめた
は鉉之助である、其著咬菜秘記が大塩乱に関する有力なる史料なるは
申す迄も無い、万延元年九月享年七十にて歿し、墓は大阪高津の大倫
寺にある。附録(一四)
柴田勘兵衛 玉造口与力、佐分利流の槍術に通じ、平八郎は之を先
生と称してゐる、附録に挙げた平八郎の消息五通は勘兵衛の子孫たる
太郎氏の所有で、内三通附録(一一)(一二)(一三)は近藤守重通称重
蔵の子息を柴田方に寄宿せしめやうとして周旋して居るものらしい。
近藤守重 中斎と守重と如何なる手蔓で相交るに至つたかは不明だ、
守重が大阪弓奉行奉職中、中斎が或日訪問に赴いた処、待てども待て
ども主人が出て来ぬのに立腹し、床間にある百目銃を取つて発砲した
とか、主人が進めた鼈の頭を小柄にて切り、血を啜りながら痛飲した
とかいふやうな話は信用し難い。守重が弓奉行となつたは文政二年即
ち中斎廿七歳の時で、免職となつたは同四年三月である、初対面の人
の座敷で無暗に鉄砲を放つなどゝは全然狂人の所為である、鼈の生血
を啜つたといふ話は、或は東湖随筆にある中斎対矢部駿州の逸話から
転訛したものかも知れぬ。
|
坂本鉉之助 玉造口与力、名は俊貞、字は叔幹、鼎斎また咬菜軒と
号す。荻野流の砲術の達人で、大塩乱の時には同心支配を勤め、大塩
方の浪士を打取つて功を立てた。同僚柴田勘兵衛が平八郎の槍術の師
匠である所から、その紹介で中斎を知るに至つた。同僚大井伝次兵衛
の忰正一郎を洗心洞塾に入塾せしめたはこの人で、著書咬菜秘記が大
塩乱に関する有力な史料であることは言ふまでも無い。万延元年九月
享年七十にて歿し、墓は大阪高津の大倫寺にある。
柴田勘兵衛 玉造口与力、佐分利流の槍術に通じ、平八郎は之を先
生と称してゐる。今柴田家に存する平八郎の消息五通中、二通は平八
郎若年兵庫勤番の砌他流試合をしたことに関し、残る三通は大阪弓奉
行近藤守重の忰を柴田方に寄宿せしめようとして周旋して居るものら
しい。
近藤守重 通称重蔵、正斎と号す。目録学に造詣深く、蝦夷千島の
探検に偉功を樹てたことは遍く人の知る所である。中斎と守重と如何
なる機縁で相知るに至つたかは不明だ。守重が大阪弓奉行奉職中、中
斎が一日訪問に赴いた処、待てども待てども主人が出て来ぬのに立腹
し、床間にある百目銃を取つて発砲したとか、主人が進めた鼈の頭を
小柄にて切り、血を啜りながら痛飲したとかいふやうな話は信用し難
い。守重が弓奉行となつたは文政二年即ち中斎廿七歳の時で、免職と
なつたは同四年三月である。初対面の人の座敷で無暗に鉄砲を放つな
どゝは全然狂人の所為である。鼈の生血を啜つたといふ話は、或は東
湖随筆にある中斎対矢部駿州の逸話から転訛したものかも知れぬ。
|