Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.3.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その87

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  五 先輩交友 (13)
 改 訂 版


川村竹坡 


塩田随斎



足代弘訓































林述斎










林家用金















代官根本善
左衛門風聞
書












代官江川太
郎左衛門届
書











































間確斎



















猪飼敬所

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 川村竹坡 通称貞蔵、名は尚迪、字は毅、津藩の臣。  塩田随斎 通称又之丞、名は華、字は陳敬。  足代弘訓 津の拙堂楽斎等を挙ぐれば、山田に弘訓あるを逸してはならぬ。 弘訓通称は権太夫、号は寛居、伊勢外宮の御師。「拙者義十歳頃より近代の 軍記をこのみ、十四より学問に志し、歌をよみ申候。二十頃三十頃はいはゆ る偏固の田舎天狗に御座候所、追々有名の人々に交り候後、段々志下り、唯 今にては白髪の老書生に御座候」、と自ら嘲つて居る位故、余程覇気に富ん だ交際の広い人であつたらしい。天保四年中斎に勧めて箚記を両文庫に奉納 せしめ、同七年十月同職安田図書を紹介して洗心洞塾に入らしめたは弘訓で、 中斎とは随分親密の間柄であつたと思ふ。評定所の吟味書に、弘訓は天保四 年出阪の砌知己となり、同六年中斎来勢の節、天竺には釈迦、漢土には孔子 あれども、日本には未だ聖人なし。某兼々修学悟道いたし、近々聖人と為る べき所存なるにより、心力を注いで作つた箚記を朝熊岳に焼捨てくれよ、然 らばその煙天に通じ、愈々聖人と為るべしとの話を間き、奇怪の申分、発狂 したのでは無いかと思ひ、その後は往復も打絶えた。また御師の安田図書を 中斎に紹介したのは、全く図書の懇望によつたのだとあるが、箚記を朝熊岳 の頂上で焚かうとしたのは六年のことではない。弘訓の申立は幾分事実を曲 げたものと信ずる。  林述斎 中斎の尺牘中に「祭酒林公も亦僕を愛するの人なり」とある。こ の林祭酒は年代から推して大学頭林述斎、名は衡、字は徳詮であることは疑 ないが、中斎の江戸遊学説を否定した上は、両者の関係は何うして結ばれた       タユヒノシヤウセンリ か。中斎門人田結庄千里前名但馬守約の話によると、林家用金の調達に起因                ハツタエモンタラウ してゐるらしい。或時平八郎が同僚八田衛門太郎を訪ふと、前刻よりその席 に居たのは林家の用人で、今度林家で家政改革をする故、大阪表で千両の頼 母子講を作つてくれろと、衛門太郎に相談をして居る所であつた。平八郎は 之を聞き、さて案外の企を承るものかな。他に洩れては乍憚林家の外聞にも 拘り申さう。右金額は拙者調進仕るにつき、頼母子講は御断念下されたく、 明朝辰ノ刻前後に御出下さらば、金子はその節お渡し申すと言切つたので、 用人は雀躍する計に悦び、何分宜しくといつて立帰つた。平八郎は直様金穴 の門弟三人を呼び、委細を話して金子を調へ待受けて居ると、果して彼の用 人は時刻を違へず遣つて来た。そこで千両の金子を渡し、伝手に大学頭殿の 御土産として御聞に入れるものがあると、塾生十余名を召出し、用人の前に て経文を暗誦せしめた所、孰れも滞なく済ましたので、用人は只管恐縮し、 千万厚誼を謝して江戸に還つたといふ事である。勿論一場の談話で、年月さ へも明白で無いが、代官根本善左衛門の風聞書と対照すると、何様も事実ら しく思はれる。風聞書には林家の無尽に白井孝右衛門は五百両、木村司馬之 助は三百両をかけ、出金の節林家家来の表印、大学頭の裏印ある証文を平八 郎から渡し、一両年は割戻しがあつたが、その後右証文を平八郎の許へ引上 げ、更に橋本忠兵衛名印の証文と取替へたとある。天保八年三月即ち大塩乱                                 ツカハラ の翌月付で、豆州韮山の代官江川太郎左衛門から差出した届書に、同国塚原 新田地内一里塚の傍の林の中に、大加賀守殿大久保加賀守忠真脇中務少輔殿 脇坂中務大輔安菫家来中、大塩平八郎と認めてある白木の壊れた箱があつて、 附近には平八郎から御老中・水戸殿用人・及び林大学頭宛の書状、その他が 雨露に濡れて散乱してをつたといひ、その目録に、          覚  一 諸書物目録一通  一 水戸殿御用人宛大塩平八郎  一封     右は雨露に封目放れ有之、  一 御老中方宛右同人      一封     右同断、  一 書状類                                拾壱通  一 証文並書付類                           廿八通三冊  一 諸書物帳面類                              九冊  一 掛物                                  一幅     右は荷物切解逃去候無宿清蔵差押、取上候分、     右諸書物入白木箱豊壱ツ、 とある。甲子夜話三篇に、老中宛の書状は他筆で時政の得失を議し、林家宛 の書状は自筆で用金の収支と自己の陳情とであつたと記してあるが、水戸殿 用人宛のものは何であつたか、一言もそれに及んで居らぬ。  間確斎 中斎一斎往復の書翰中におる間生は、十一屋五郎兵衛といふ質屋 の主人で、名を重新、字を徳盛、号を確斎といひ、天文家として有名な長涯 の長子である。確斎が中斎の知己になつたは何時からであるか解らぬが、彼 が中斎と交を絶つたは挙兵前半年計で、それには一條の話がある。七年の秋 の頃確斎が洗心洞の塾の方へ行つて見ると、下駄の脱ぎ方が甚だ乱暴で、片 足づゝ散乱してゐる始末、毎々中斎から頼まれて居るには、何事によらずこ の方の行届かぬ点があつたら、遠慮なく知らせて呉れよとあるのを想出し、 中斎に告げた所、御心付誠に忝なしと懇々礼を述べた。然るに一月程経て行 つて見ると、下駄の脱ぎ方は以前と同様乱暴であるので、確斎は中斎の心と 言と相違あるを知り、それからは再び洗心洞を訪はなかつたといふ。  猪飼敬所 名は彦博、字は希文、敬所と号し、宝暦十一年京都に生る。三 冊本の儒門空虚聚語の巻首に追鐫猪飼翁校讐之記が載つてゐる。天保八年四 月敬所から三谷謙譲に与へた手紙に、「大塩平八、一昨年夏儒門空虚聚語校 讐記を附し、老拙を嘲り、且其以前洗心洞箚記中に、彼が学術に係らずして 甚誤候三事を申遣し、能容人言や否を試み候処、初秋以書状其非を文り、且 以狡猾之詞欲鉗二老拙の口、老拙不勝棒腹、励言これに答候、其後絶交候」 とある。


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