但馬守約
湯川幹
磯矢頼母
岡本維純
渡辺良左衛
門
分部復
志村周次
大塩格之助
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但馬守約 字は直養、箚記点校者の一人であるのみならず、
箚記の版下は守約の筆に成つたものだ。
湯川幹 字は用誉、大学刮目訓点者の一人で、天保六年版
の箚記跋文によると、幹先生の門にある僅に一年とある、大
日本教育史料巻五に湯川麑洞、名は新、又の名は浴、字を君
風、紀州新宮の人、洗心洞塾の塾長たること数年といへば、
或いは幹と同人かも知れぬ。
磯矢信 字は子行、天保八年版の大坂袖鑑に東組与力中磯
矢頼母の名がある、頼母は平八郎の門人なること、跡部山城
守の書取附録(二五)に明白なれば、信と同人であらう。
岡本維純 字は大仮、履歴未詳。
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渡辺漸 字は正邦、これは恐らくは東組同心渡辺良左衛門
の事であらう、乱当時四十一二歳、平素温厚実直の人であつ
た為、何様して彼人が大塩に党したかと、聞く人々が驚いた
といふ。
分部復 字は天行、履歴未詳。
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志村善継 字は周次周二ともあり通称刀之助原本に刀之助
とも力之助ともあり江州小川村の医師で、時々出阪しては大
塩邸に寄寓し、中斎の手許又は勝手向の用を足してゐた。
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大塩尚志 字は士行、通称格之助、中斎の養子、実は東組
与力西田青太夫の弟で、挙兵当時廿七歳計だあつた、之を門
人の中に挙げるのは、可笑しいが、孝経彙註巻末の参訂姓氏
の中にあるので、便宜上此に掲げて置く、
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但馬守約 字は直養。箚記点校者の一人であるのみならず、
箚記の版下は守約の筆に成つたものだ。後田結荘千里と改名。
湯川幹 幼名民太郎、字は用誉、紀州新宮の人。大学刮目
訓点者の一人で、天保六年版の箚記跋文によると、幹先生の
門にある僅一年とある。乱後名を新又は浴、字を君風と改む。
大日本教育史料巻五にある湯川麑洞と同人。
磯矢信 通称頼母、字は子行、東組与力。堺与力辻村氏か
ら出で磯矢家に養はる。天保九年十月別に一戸を立て、安
政四年四月五日歿す。享年五十二。
岡本維純 字は大仮、履歴未詳。
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渡辺漸 通称良左衛門、字は正邦、東組同心。挙兵等時四十
一二歳、平素温厚実直の人であつた為、何様して彼が大塩に党
したかと、聞く人々が驚いたといふ。
分部復 通称図書、字は天行、大溝藩士。
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志村善継 字は周次周二ともあり通称力之助。江州小川村の
医師で、天保三年中斎が藤樹書院を訪間した時、周次は書院の
世話方をしてゐた。その後時々出阪しては大塩邸に寄寓し、中
斎の手許又は勝手向の用を足してゐたといふ。
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大塩尚志 字は士行、通称格之助、中斎の養子。実は東組与
力西田青太夫の弟で、之を門人の中に挙げるのは、孝経彙註巻
末の参訂姓氏の中にあるからだ。以上十三名の外、吟味書類そ
の他によつて洗心洞の門人を捜索すると左の通り。但し真に門
人であつたか、大塩邸に出入したに止まるか、不明の分も若干
ある。
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