Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.3.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その92

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  六 門人 (3)
 改 訂 版


但馬守約





湯川幹






磯矢頼母



岡本維純





渡辺良左衛
門





分部復


志村周次






大塩格之助

 但馬守約 字は直養、箚記点校者の一人であるのみならず、 箚記の版下は守約の筆に成つたものだ。  湯川幹 字は用誉、大学刮目訓点者の一人で、天保六年版 の箚記跋文によると、幹先生の門にある僅に一年とある、大 日本教育史料巻五に湯川麑洞、名は新、又の名は浴、字を君 風、紀州新宮の人、洗心洞塾の塾長たること数年といへば、 或いは幹と同人かも知れぬ。  磯矢信 字は子行、天保八年版の大坂袖鑑に東組与力中磯 矢頼母の名がある、頼母は平八郎の門人なること、跡部山城 守の書取附録(二五)に明白なれば、信と同人であらう。  岡本維純 字は大仮、履歴未詳。    渡辺漸 字は正邦、これは恐らくは東組同心渡辺良左衛門 の事であらう、乱当時四十一二歳、平素温厚実直の人であつ た為、何様して彼人が大塩に党したかと、聞く人々が驚いた といふ。  分部復 字は天行、履歴未詳。    志村善継 字は周次周二ともあり通称刀之助原本に刀之助 とも力之助ともあり江州小川村の医師で、時々出阪しては大 塩邸に寄寓し、中斎の手許又は勝手向の用を足してゐた。    大塩尚志 字は士行、通称格之助、中斎の養子、実は東組 与力西田青太夫の弟で、挙兵当時廿七歳計だあつた、之を門 人の中に挙げるのは、可笑しいが、孝経彙註巻末の参訂姓氏 の中にあるので、便宜上此に掲げて置く、

 但馬守約 字は直養。箚記点校者の一人であるのみならず、 箚記の版下は守約の筆に成つたものだ。後田結荘千里と改名。  湯川幹 幼名民太郎、字は用誉、紀州新宮の人。大学刮目 訓点者の一人で、天保六年版の箚記跋文によると、幹先生の 門にある僅一年とある。乱後名を新又は浴、字を君風と改む。 大日本教育史料巻五にある湯川麑洞と同人。  磯矢信 通称頼母、字は子行、東組与力。堺与力辻村氏か ら出で磯矢家に養はる。天保九年十月別に一戸を立て、安 政四年四月五日歿す。享年五十二。  岡本維純 字は大仮、履歴未詳。    渡辺漸 通称良左衛門、字は正邦、東組同心。挙兵等時四十 一二歳、平素温厚実直の人であつた為、何様して彼が大塩に党 したかと、聞く人々が驚いたといふ。  分部復 通称図書、字は天行、大溝藩士。    志村善継 字は周次周二ともあり通称力之助。江州小川村の 医師で、天保三年中斎が藤樹書院を訪間した時、周次は書院の 世話方をしてゐた。その後時々出阪しては大塩邸に寄寓し、中 斎の手許又は勝手向の用を足してゐたといふ。    大塩尚志 字は士行、通称格之助、中斎の養子。実は東組与 力西田青太夫の弟で、之を門人の中に挙げるのは、孝経彙註巻 末の参訂姓氏の中にあるからだ。以上十三名の外、吟味書類そ の他によつて洗心洞の門人を捜索すると左の通り。但し真に門 人であつたか、大塩邸に出入したに止まるか、不明の分も若干 ある。


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