Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.4.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その97

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  一 決心 (1)
 改 訂 版




乱魁  

与力として又学者として令名三都に鳴響いた平八郎後素は、乱魁の 二字を以て其一生を終るに至つた、彼は利を見て肯て進まず、害を 見て肯へて退かず、功を同じうすれば則ち之を人に帰し、過を同じ うすれば則ち之を己に受くるといふ覚悟を以て、目安役並証文役か ら吟味役まで勤上げた能吏である、一旦意を決して辞職したとはい へ、高臥労苦を舎つるを潔しとせず、夙に興き夜に寝ぬ、経籍を研 して生徒に授け、学んで厭はず、人に誨へて倦まざりし師儒である、 彼は自ら言へる如く、大に声誉を求めんと欲せず、又再び世に用に 用ゐられんと欲し無かつたのであるが、百事を一擲し去つて出世間 的の障害を営むこと、彼の稗史小説にある仙家道士の如くならんこ とを願はず、其学説に於て知行合一を主張したりし中斎の最大理想 は、之を以て身を修め家を斉へ、推しては天下国家を治めんとする にあつて、世間は常に彼の眼底に映じ、国家の利害人民の休戚は、 絶えず彼の胸中に存してゐた、荻野四郎助に与ふる手紙に「無之事 に者候得共、天下御大切之是と申事之節者、隠居ながらも急度砕身 粉骨可致積」とあるのは、能く此間の機微を証明するものといふべ しだ、而も此の如き経歴と此の如き志望とを抱ける巨人をして、一 朝同志を語ひ、白刃長槍を携へ、火を放ち銃を発し、市街を横行し て捕手の人数に抵抗するに至らしめたは抑も何であるか、挙兵の理 由と兎もあれ角もあれ、当時の為政者から見れば乱魁の二字を下し て豪も差支え無いのである。

 良吏として又学者として令名のあつた平八郎後素は、乱魁の二字 を以てその一生を終はるに至つた。彼は利を見て肯へて進まず、害 を見て肯へて退かず、功を同じうすれば則ち之を人に帰し、過を同 じうすれば則ち之を己に受くといふ覚悟を以て、吏務に精励した。 然し彼の為した所はその職掌に因るとはいへ、常に秋霜烈日の如く で、絶えて春風駘蕩たる所がない。彼は在職中既に帷を垂れて生徒 を教授したが、退職後愈々経籍を研して生徒に授け、学んで厭はず、 人に誨へて倦まず、また再び世に用ひられんことを欲し無かつた。 然し世間は常に彼の眼底に映じ、国家の利害人民の休戚は、常に彼 の胸中を往来した。「無之事には候得共、天下御大切之是と申事の 節は、隠居ながらも急度砕身粉骨可致積」とあるのは、彼の終局の 決心を止露したものといふべきだ。此の如き経歴と此の如き意志と を有せる巨人をして、一朝同志を語らひ、白刃長槍を携へ、火を放 ち銃を発し、市街を横行して「乱魁」の汚名を被むるに至らしめた は抑も何であるか。  何故か何時かといふ問に対し、歴史上の題目で答へられぬものが 少くない。殊に内密に計画される性質のもので、然もその計画が失 敗に終はつた場合には、大抵正確な答は得られぬのが例で、成功者 側に記録が残り、失敗者側に記録の滅ぶことは、一般の規則といつ て宜い位である。大塩乱に就いては幸に檄文附録(五)の文句が伝 へられてあるから、之によつて挙兵の理由を検出して見よう。


「大塩平八郎」目次3/ その96/その98

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