Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.4.29

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その99

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  一 決心 (3)
 改 訂 版


天災頻々 








内請

賄賂







用金

















米価引下策

文政の末から天保に亘り、天屡々此土に災を下したは檄文にある通 りだ、即ち文政十一年には九州に大水があるし、天保元年、三年・ 四年及び七年は風雨時を得ずして諸国凶作となり、四年七年は殊に 激しかつた。天災の降下を以て上役人の不徳を戒めるものとするの は古い支那流の考で、その当否は弁ずるまでも無いが、奥向女中の 因縁又は賄賂によつて重職に経上つた実例は、之を挙ぐるに困難を 感ぜぬ、春日局の桂昌院の如は随分表向の政治にも嘴を出し、田沼 意次の執政時代には体能くいへば進物、一度剥けば賄賂の取遣が盛 に行れた、元禄以来悪貨幣り鋳造は地金の不足物価の騰貴等に伴へ る止むを得ざる理由はあつたとしても、其間関係有司が私腹を肥し たは疑ふべからざる事実である、又用金令は大阪では宝暦十一年が 第一回で、天明五年・文化七年・同十年にもあつた、之は或意味に 於ては今日の公債募集と同じく、一定の利子と一定の償還期限とを 示し、町奉行所から指名して募集に応ぜしむる、其金額及上納期限 は或は之を指定することもあれば、或は随意に申出でしむることも あつて一様でなく、又大抵用金の使途をも説明して居る、多くは米 価釣上の為、右用金を以て買米を行はんとするのであつて、直に幕 府財政の欠乏を補んとする天保以後の用金とは、大に趣を異にして ゐた、従つて享保十六年・延亨元年・宝暦十二年・文化七年等を以 て下されたる買米令も亦一種の用金令に外ならぬ、而して是等の場 合には、割当てられたる用金額買米額の減少を歎願し、上納又は買 入期限の猶予を哀訴するのが常例で、三郷惣年寄中に御用金又は御 買米御用掛なる者が出来、之が官民間周旋の任に当り、町奉行所と 受命者との間に数回の押問答があつた後始めて極る、それ故下命当 初に比して多少の減額はあるが、巨額の正金銀を市場より引去る為、 世上一般金融逼迫となり、普請・修繕・物見・遊山、総じて金銭の 費ゆることは一切中止となり、不景気の声のみ高くなる、之と反対 に騰貴せる米価を引下ぐる為に幕府の施す政策は、売買米の潤沢を 計るを主眼とし、其方法としては、第一買占囲持等人為的の手段を 以て米価を釣上げんとする奸商共を取締ること、第二大阪三郷より 他所に輸出する米高に制限を附するか、或は全く輸出を禁止するこ と、第三酒造用に供する米高を制限すること、第四諸侯に促して大 阪廻米額を増加せしむること等を行ひ、而して一方には難波川崎の 官廩を開き、島町将棊島の籾蔵より官民合同にて蓄積した囲籾を引 出すを許し、又富商豪家の慈善心に訴へて焦眉の急に応ずるのであ つた。

 文政の末から天保に亙り、天屡々この土に災を下したは檄文にあ る通りだ。即ち文政十一年には九州に大水があるし、天保元年・三 年・四年・及び七年は風雨時を得ずして諸国凶作となり、四年七年 は殊に激しかつた。天災の降下を以て上役人の不徳を戒めるものと するのは古い支那流の考で、その当否は弁ずるまでも無いが、奥向 女中の因縁又は賄賂によつて重職に経上つた実例は、之を挙ぐるに 困難を感ぜぬ。田沼意次の執政時代には体能くいへば附届、露骨に いへば賄賂の取遣が盛んに行はれた。田沼が自分の手に入る賄賂の 一部を大奥に分けてその甘心を買つてゐたため、彼が免職になると 奥女中が徒党して辞職を申出で、松平楽翁公を手擦らせた実例があ る。楽翁公の寛政時代は綱紀一時張つたが、水野出羽守忠成が老中 (文政元年―天保五年)と為るに及んでまた田沼時代に復り、賄賂 は公行し、権力は下に移り、度々の金銀改鋳により財政は紊れ、物 価は騰貴する。表面は太平であるが、中味は爛熟温醸破裂せんばか りであつた。 ■御買米と御用金  大小を問はず武家の収入の大部分は米である。米価が安ければ武 家はそれだけ収入滅を来す勘定である。そこで幕府は米価の下落が 甚だしい場合、富商豪家に命じて米穀を買上げしめる。之を御買米 といふ。或は彼等をして金銀を出さしめ、その金銀により幕府の手 で買米を行ふこともある。之を御用金といふ。御用金は強制的公債 募集と解して可なるべく、御用金令を発する時は一定の利子と一定 の償還期限とを示すのが普通である。大阪で御買米令の出たのは享 保十六年を第一回として文化七年までに都合四回、御用金令は宝暦 十一年を第一回として文化十年までに都合四回あるが、孰れにせよ 毎回多額の正金銀を一時に市場から引上げる結果となるので、普請 物見遊山等金銭を費すことは中止となり、不景気の声のみ高くなる。 田沼時代の末に天下一統の御用金といふことがあつたが、之は発令 後間もなく田沼が没落したから実施に及ばなんだ。それから幕府以 外大小の武家が領内の百姓町人に課する用金は、領主一己の財政を 補足するためであるから、賦課の有無金額の大小区々として一定す る所はない。多分は張制的借上金で百姓町人の迷惑であつたに相違 ない。  米償の騰貴は武家にとつて収入増となる勘定であるが、極端の騰 貴は不作によるものであるから、武家は言ふに及ばず、百姓町人全 般の患で、為政者は之が対策を講ずる必要がある。幕府としては全 国に令して酒造用の米高を制限すること、諸侯に促して大阪廻米額 を増加せしむること、大阪町奉行としては三郷より他所に輸出する 米高に制限を附するか、或は全く輸出を禁止すること、買占囲持等 人為的の手段を以て、米価を釣上げ私腹を肥さんとする奸商共を取 締ること、難波川崎の官廩を開き、島町将棊島の籾蔵より官民合同 にて蓄積した囲籾を引出すこと、富商豪家の慈善心に訴へて焦眉の 急を救ふこと等である。


「大塩平八郎」目次3/ その98/その100

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ