Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.10.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その100

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第五 金 融
  二 武家の金融 (6)
管理人註

空米切手の 取締

 米切手に関する取締の最も古く見えたのは承応三年(一六五四) の触書で、それには切手といはずに手形といつてゐる。近年仲買 共が大阪で手形の売買を始め、又蔵元は三分一程の敷銀を取つて 居るから、損が行かぬといふ所で、蔵出期限を励行せず、両方相 助けて米価を騰貴させ易い。甚しきに至つては蔵屋敷で実際の米 を持たぬに先手形を売渡し、後日に到着する廻米で請払をするや うなものがある。依て蔵出期限を確守し、手形の転売及び先手形 の発行を禁ずとある。ここに先手形といふのは後世の空米切手の ことであるから、空米切手は随分古くからあつたものである。こ の頃の蔵出期限は三十日と見えるが、本令以後手形売買を禁じ、 或は蔵出期限の短縮を促したことが再三ある。寛文三年には三十 日の蔵出期限を十日に縮め、若し米価が下落したら旧の通り三十 日にするとある。これによれば以上二つで米価騰貴の趨勢を制限 し得られるものと考へたらしい。  空米切手の取締は承応からずつと後世の宝暦十一年(一七六一) に見え、それから以後は度々見えてゐますから、禁令があつても 一向止まなかつたものでせう。文化十一年(一八一四)には筑後 の有馬家の空米切手が発覚し、発行総高四十二万石の巨額に達し、 それがため他藩の米切手まで或は空米切手では無いかといふ疑惑 が起り、市場の動揺一方ならざるものがあつた。町奉行所でも捨 てゝ置く訳に行かないので、段々取調べて見ると、筑後藩ではこ れは立入町人の仕業で藩の知つて居る所ではないと弁解した。け れども立入町人が蔵屋敷役人の知らぬ間に勝手に米切手を発行し 得るものではなく、米切手には必ず何蔵と蔵印が押してあるから、 留守居が知らぬとはいひ得ない。結局その決済の方法は一割七分 余を現金で支払ひ、残額を二十ケ年賦とし、利子を一ケ年五分と 定め、二十ケ年賦で支払つた後、更に十ケ年賦で利子を支払ふこ と、つまり三十ケ年賦といふことになりました。この騒動の際、 肥前佐賀藩の空米切手も露顕した。総高二十万石で、この方も長 期の返済を契約して落着した。幕府としては大名を身代限にする 訳にはゆかないので、債権者たる町人の方が毎時も不利益の位置 に立つべく余儀なくされた。

 


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