フダサシ
掛屋と大名との関係は丁度江戸では札差と蔵米取との関係とな
る。旗本御家人は、その俸禄の受取方よりいへば、地方取と蔵米
取との二つに分れる。地方取といふのは知行を有するもの、蔵米
取といふのは浅草の御蔵―五十一棟二百五十八戸前―から米を貰
ふものである。武鑑に何百俵、何人扶持とある分は皆蔵米取で、
知行取に比ぶれば夥しい人数です。
さりながら蔵米取に対し、全部を蔵米で渡すのではなく、半分
は金、半分は米で渡すので、毎年春・夏・冬の三回に分けて渡す。
毎季必ずしも米二分の一、金二分の一といふ風ではないが、一年
を平均すると大体において米金半々となるので、米金渡方の率と
米を金に換へる率とはその都度城内の中の口に張紙が出る。百俵
三十五石を標準とした金高で、これを張紙直段といふ。
しかし蔵米取の面々が自分で蔵米を請取つて、それを自分で売
払ふことは迷惑であるから、請取方及び売却方を引請ける者が出
来た。それが即ち札差で、浅草御蔵の附近に店を構へ、その店を
蔵宿或は単に宿といつた。彼等は札旦那即ち依頼者に代つて請取
方売却方をつとめるばかりでなく、蔵米を引当として貸付を行ひ、
利子を取るに至つた。つまり小給の武家の金融機関となつた。
大阪の掛屋には組合がないが、江戸の札差は享保九年(一七二
四)七月、町奉行大岡越前守の時に立派に官許となり、総人数百
九人、分れて片町組三十一人、天王町組三十一人、森田町組四十
七人の三組となり、毎組五人づゝの行事を置いて組内の取締にあ
たらしめた。この組分は一時十組に変つたことがあるが(延享四
年―明和七年)、再び三組に帰り、幕末までそのまゝであつた。
仲間の人員は時により多少の出入はあるが、先づ百名内外であつ
た。かやうに人員が一定してゐるから、新規に札差を開業しよう
といふ時は明株を譲受けねばならぬ。その権利が頗る高価であつ
たので俗に千両株といつた。株の価の高いのは利益の多かつた証
拠です。新規の開業者は従来の営業者の二三男か、或は多年札差
方に奉公したものに限られてゐた。従つて屋号の同じものが沢山
ある。伊勢屋・板倉屋・大口屋・泉屋等で、大地震前蔵前―浅草
橋の方から行つて左側―に、煉瓦造の御殿のやうな一種特別の建
物をしてゐた青地氏は旧称伊勢屋でした。
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