札差が株仲間となつたのは享保九年であるが、その業務は古く
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慶安頃よりあつたといふ。元来札といふのは蔵米の請取証文で、
それには頭支配の裏書が必要である。札差が札差料即ち蔵米請取
ウリカハ
方の手数料として請取る所は百俵につき金一分、また売側と唱へ、
払米手数料として得る所は百俵につき金二分である。一年に御蔵
から出る米が平均して四十一万石位であるから、これを全部蔵宿
で請取り、且つ売払ふものとして、三十五石につき札差料売側合
して金三分づゝであるから、総計一万一二千両、大した金額では
ない。況んや札旦那が自家の食料として引取る石高もあるから、
決して全部売側が得られる訳ではない。それだのに札差共が蔵前
風といふ詞の残る程に豪華な生活を営んだのは何のためかといへ
ば、全く貸金の利子による。それと反比例に蔵米取の困窮は借金
の利子に追はれるからで、第一回の借金を返済しきらぬ内に、第
二回の借金をせなければならぬやうになり、所謂浮ぶ瀬がないの
である。
さうしてその利息は、享保九年の申渡に一年一割五分以上の高
利に貸付くべからず、それより以下は相対次第たるべしとある。
即ち最高を年一割五分と決めた。これを二十両一分または七分五
厘利ともいふ。二十両一分といふのは金二十両につき一ケ月金一
分の意味、七分五厘利といふのは金一両を銀六十目とし、金一両
につき一ケ月銀七分五厘の意味で、つまり年一割五分を色々にい
ひかへたまでゝある。蔵宿共は今迄二割に貸した(元緑十四年の
質屋の利子規定を見ると百両までは二割です)。二割から一割五
分に下げられては突飛の引下げである。せめて一割八分を最高と
せられたい。今度の御申渡を承り、札差共が融通を仰げる金主中、
資金引揚を申込まれるあり、利息の高下を問はず、貸借の滞なき
を欲する借主も少からず、彼是の事情を御斟酌ありたいと、札差
仲間から願出でた。しかし幕府は一度命令した上はもとへ戻すこ
とは威厳に関すると考へ、表面上は飽くまで一割五分を固執し、
その上少々の儀は借方と相対次第にせよと命じてゐる。これが利
子制定の第一である。御定書百ケ條に家質諸借金利息一割半以上
の分は一割半に直すべし(寛保元年極)とある。それ故一割半が
当時の公定利子といへる。尤も享保以前は通常二割に貸したとい
ふが、多くはもつと高い利子であつたと、大日本貨幣史参考貸借
部に旧札差伊藤其の話が見えてゐる。
江戸の利息の勘定の仕方は、利息の金一分を標準として元
金を数へる場合が多い。二十五両一分は年一割二分、二十両
一分は一割五分、十五両一分は二割、十両一分は三割となる。
また金一両即ち銀六十目を標準とし、一ケ月銀何分と数へる
時もある。
上方では元銀一貫目を標準として利息が月十五匁なら一半、
月十匁なら一分、月九匁なら九朱といつた。但し朱を百分の
一に数へる場合もあるから注意を要する。
享保に一割半となつても、それは公定の利子で、実際は矢
張一割八分又は二割位で貸借が行はれたらしい。その証拠は
寛延二年(一七四九)に金一両に銀七分五厘の規定利子以外
に、助成料として一分五厘を取ることを許してゐるからで、
両方合はせると一割八分になります。
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