古借棄捐と
利子引下
猿屋町会所
松平定信の
意見
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キエン
寛政元年(一七八九)九月に老中松平定信は古借棄捐利子引下
といふことを断行した。棄捐といふ文字は古く訴訟を却下する場
合に用ひられたが、楽翁公の時代になつては貸借の破棄といふ意
味に用ひられた。室町時代の徳政と或点において類似してゐる。
寛政元年令は六ケ年以前即ち天明四年までの借金を一切帳消と
し、天明五年以後の借金は五十両月一分の低利(年六分)を以て、
高百俵につき一ケ年元金三両の割合を以て年賦償還とし、また将
来の利子を金壱両につき一ケ月銀六分即ち二十五両一分とした。
これは年一割二分に当る。これによつて蔵宿で一時に失つた古貸
付金は百十八万七十八両といふ大金であつた。かくの如き莫大な
貸付金を失つたため、蔵宿は非常に迷惑し、金融不円滑を名とし
て貸金を断るに至つた。札旦那の方では旧借金帳消の恩恵をそれ
ほど有難いとも感ぜず、新借金の出来ないのを苦に疾み、一体こ
の暮はどうして過せるかと不平をいふ。幕府の同列の中にも反対
が起つて定信も少からず困却したやうである。
しかし幕府は古借の棄捐や利子の引下のみを蔵宿に迫つたので
はなく、一方には蔵宿の資金融通を計つた。即ち浅草の猿屋町に
会所を建て、町年寄樽与左衛門を主任とし、幕府自ら二万両を出
し、別に御勘定所御用達町人の差加金を加へ、これを融通金とし
た。幕府の出資額の中、一万両は特に蔵宿へ貸下げ、十年間据置、
十一年目から二十ケ年賦に返納とし、残の一万両は御勘定所御用
蓮の差加金と共に会所に置き、この分は必要があれば一割二分で
貸付ける。その内一分は会所の入用、三分は札差の所得とし、残
の八分は差加金なら金主にやり、幕府の金なら五分を元金の返済
に組入れ、三分を会所に積立て、貸付金にまはす規定でした。
楽翁公はその著述「宇下の人言」において、古借棄捐利子引下
のことに論及してゐる。曰く、今回の事件は自分一人が全責任を
負つて断行した。衆評の上でやつては仕損じた時大勢の怪我人が
出来る。容易なことを独りでやつて、難儀なことを人に頼り人に
移すことは、自分のしない処だといひ、また人々が不融通を喧し
くいふが、よく\/考へれば蔵宿が貸してくれないのが却つて御
家人達の幸である。若し御家人達が自由に借金をしたら、またも
との通りになつて、再び古借棄捐が必要になるだらう。貸さない
のが仁政に叶ふ所以であると論じてゐます。
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