Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.10.18

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その105

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第五 金 融
  二 武家の金融 (11)
管理人註

天保の改革

 前にも申した通り札差の利息は享保九年に二十両一分即ち年一 割五分となつてゐる。それを寛政元年に二十五両一分即ち年一割 二分に引下げた。世上一般の貸金銀の利息は享保よりやゝ後れて 寛保元年(一七四一)に一割五分となつてゐるが、それが一割二 分となつたのは天保十三年(一八四二)で、蔵宿の貸金利率の引 下から五十年も経つて漸く追随した訳である。さうなると蔵宿の 利子もまた更に引下げるのが当然であるといふ議論が生じ、蔵宿 の方ではその趣旨に応じて三十両一分即ち年一割と申立てた。天 保の改革によつて株仲間が解放せられてから間も無い頃です。然 るに幕府の方では蔵米取の敷代の借金を一掃しようといふ考で、 猿屋町会所から彼等に貸付金をなし、旧借を札差共に返金させ、 さうして蔵米取からは廿五ケ年間毎年貸付金の七分に当る金額を 返納せしめ、それで元利皆済とする案を立てゝみたが、どうも巧 く行かない。そこでこの案も廃止となり、結局天保十四年十二月 になつて、すべて札差から旗本御家人への貸付金は無利息年賦納 (百両につき五両づゝ)とせよ、その代り猿屋町会所で今迄札差 共に貸付けてある八万七百両余はこれまた無利息年賦納を許すと 令した。英断といへば英断であらうが、実は無法で、札差仲間の 半数は門戸を締めてしまつた。幕府では俄に御勘定所御用達十五 人に命じて新規に札差を開業せしめて見たが、慣れぬこととて仕 事が手につかぬ。これは確に幕府の失態であつた。  嘉永の株仲間再興によつて札差は天保十三年と同様の利息を取 ることになり、その儘幕末に及んだのでせう。何分嘉永以後は文 献が不足でよく分りかねますが、慶応四年(明治元年)の春まで 営業を継続してゐた。但し従来千両株といはれた札差株が幕末に 二百両三百両に下落したのは、札差家業の利益が少くなつた証拠 となるでせう。  最後に一言して置きたいのは馬喰町御貸付金といふものです。 これは馬喰町の御用屋敷に勤めてゐる代官が取扱ふ貸付金で、俗  グンダイ に郡代金といふ。借手は大名及び旗本の面々ですが、天保十四年 五月に思ひ切つて貸付方を改良し、従来の貸付高の二分ノ一を帳 消とし、銭の二分の一を無利息年賦納とした。「馬喰町御貸付金 之儀は当五月御主法替被仰出半高棄捐半高無利息に被成下、 諸大名を始御旗本知行取の面々は一同莫大之御仁恵を被り難有 奉存候儀に御座候」とあります。この会所の沿革はもつと調べ て見たいのですが、生憎史料がまだ手許に寄りません。

 
  


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