質屋が金融機関の一種であることは今日と違ひがない。大阪及
び天満の質屋は寛永十九年(一六四二)に仲間判形帳を町奉行所
に差出してゐるが、江戸ではそれから五十年後の元禄五年(一六
九二)になつて始めて質屋仲間が成立した。享保八年の調に江戸
の質屋は二百五十三組二千七百三十一人とありますが、大阪では
安永の末か若しくは天明の初年に、大阪質屋四百十四軒、天満質
屋百八十二軒とあります。
質物は衣類・刀・脇差・諸道具を主とする。江戸の質屋の利息
は元禄十四年の規定が根本となつて居る。元禄の規定は金高に応
じて五割から二割までを取る、即ち銭貸は百文につき一ケ月四文
といへば、五割に当り、金貸は金二両以下一ケ月一歩につき銀四
分といへば三割二分に当り、金百両以下一ケ月一両につき銀一匁
といへば二割に当る。金高が多くなればそれに従つて利率は安く
なる。流質の期限は品物によつて十二ケ月八ケ月の区別があつた
が、御定書百ケ條には八ケ月の一つになつてゐる。
江戸の質屋の利息は寛政と天保との両度に改正せられた。札差
の貸付金の利息の下つて行くのとよく照応してゐる。寛政の利下
は数字の上からいへば大したものでも無いが、それでも質屋にと
つてはかなりの苦痛であつたらしい。天保十三年十二月の改正は
極端で、利子は殆んど元禄の一半に引下げられた。即ち銭百文に
つき一ケ月二文、金二両以下は一分につき一ケ月二十文、金百両
以下は一分につき一ケ月銀一分となつた。金一分につき銀一分は
年八分に当る。一般の貸借利子が二十五両一分即ち一割二分の場
合に、それ以下に引下げたのは無法といはなければならぬ。質屋
仲間は大騒ぎで続々として店を閉ぢた。生憎年末なので市中は頗
る動揺した。そこで幕府は善後策を講じ、遂に翌年七月本令を撤
廃し、当分質物の利息は定めないから、元禄度の振合にあはせて
取引するやうにと申渡した。幕府の威厳は丸潰れといふべきであ
る。
大阪の質屋の利息は衣類は月に二分、俵物又は刀・脇差・諸道
具類は三分とし、流質の期限を三ケ月としてゐます。天保九年に
幕府より流質を三ケ月としたのはどういふ訳かと聞かれた時、古
来よりの仕来で、最初の年月は不明であると答へてゐる。尚流質
は実際に於ては翌月の二日迄は猶予したとのことです。
質屋の数は江戸は嘉永末年の調に二千七十五人、大阪は千三百
二十八人とある。
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