利息に対す
る遠山左衛
門尉の意見
頼母子(無
尽)
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貸借の状態は万種万様であるが、要するに幕府公定の利率は中々
行はれない。幕末名奉行の称ある遠山左衛門尉景元が、弘化四年
(一八四七)に上つた意見書の一節に、一体高利金を貸すものに
ついては度々御沙汰もあり、召捕吟味にも及んだが、惣じて相対
の取引であるから、今以て止まない。銭貸は尚更、小金の分はと
ても二十五両一分(一割二分)は勿論、それ以上の安利では貸借
は出来ない。喧しくいへば却つて吹毛の差支が出来る。寅年(天
保十三年)前までは二十両一分(一割五分)に申付けたが、小金
の分は多分十五両一分(二割)の証文で取引があつた。右は安利
ではないが、高二三百俵位のものは十五両一分でも借りられゝば、
それで結構である。下々なら五両も借りられゝば、一時それで凌
げるから、一分の高利でもそれでよいのである。高利には当るが、
取続いて行けるから悦んで借入れるのである。さて極々下賤のも
のは日なしを借りる。これは色々の仕方があるやうで、六斎とい
ふやり方は、銭一貫文を一口とし、二百文づゝ六斎に返へす。つ
まり二百文が利息で、これを金利に直すと、金五両につき一ケ月
一両の利息に当る。但し借手は元来身薄のもの故、三十人に貸出
して十人位は故障が起る。貸手も中々辛い。さういふ始末で小金
の分は触面通り二十五両一分では貸手がない。百両前後の貸金と
なれば、貸手が何程強慾で、五両一分の高利を貪らうとしても借
手がない。精々廿両か廿五両一分位で融通し、千両以上にもなる
と一割位になる。大金を並利で借入れようといへば、却つて貸主
の方で貸さない。畢竟利息は相対で定まるもの故、御定書にも二
十両一分より以上は二十両一分にて済方申付けよとある次第であ
る。これに比べては質物利息は高直である。質物の利息は高くと
も許され、引当物のない証文金の高利は御咎になる。これは聊か
不相当のやうである。去る寅年二十五両一分と触れ出され、それ
より高利に貸すは不埒といふことになつたが、元来貸主の目的は
利殖であつて、救済ではない。高利の取締を厳重にすれば、貸手
は手を縮める。利息を定めて触示したのは金銀不融通の基で失策
といはざるを得ないとあります。卓見といふべきです。
タノモシ
頼母子または頼母子講は金銭の融通を主とする信用組合であつ
て、無尽ともいふ。無尽無尽銭といふのは本来質屋(土倉)の貸
出す銭をいふ。多数が協同して相互の融通を計ることが頼母子で、
これは足利時代に既に行はれてゐた。徳川時代には上方で頼母子
といふものを、江戸で無尽と称するやうになつた。
頼母子には親のあるのが普通で、親とは発起人である。その発
起人の勧誘に従ひ、同志が集まつて銘々何口かを持つ。一口でも
数口でもそれは勝手で、一口何程と懸金が定まつて居る。悪銭の
極小さいのになると前垂無尽などといふ。当籤の方法には入札と
振鬮の二種がある。入札といつても第一回は親が懸金全部をとり、
第二回になつて入札をさせる。懸金総額より低い直段を入れさせ、
最低のものに入札する。第三回も第四回も同様で、さうして落札
者は落札後毎回規定の懸金をかけて行かねばならぬ。満会に至る
回数は親を加へた加入者の口数できまる。この入札額と懸金総額
との差額は割戻或は席料馳走料等に充てる。振鬮の方は鬮によつ
て毎回当籤者をきめる。入札は上方、振鬮は江戸で行はれ、大抵
料理屋で開催せられた。取除無尽といふのは当籤者が後の懸金を
出さない。早く当籤した者程利得がある。一種の博奕で、懸捨無
尽ともいふ。幕府で幾度か禁令を出したが效がなかつた。
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