富は前述の取除無尽と名は達つてゐるが、実質に於ては同じで
ある。無尽では出資者の数も少く、従つて獲得する金額も少い。
権利義務が一回限で、さうして獲得額の多いのを好むやうになつ
て、富が生じたものと思はれる。幕府が富を許したのは、社寺の
修理費に充てる意味で享保十五年(一七三〇)京都御室仁和寺の
富興行が最初である。従来幕府に由緒ある神社仏閣の修繕には幕
府から助成金を与へたが、享保年間これを廃止したためである。
仁和寺の富興行以後、これに倣ふものが続出し、文化度には江戸
に二三十ケ所もあつたといふ。谷中の感応寺、目黒の瀧泉寺、湯
島の天神、これを江戸の三富といつて有名であつた。
富札は一枚毎に番号をつける。仮に総札数を三千枚とすれば、
一から三千までの番号をつける。或は松竹梅とか、春夏秋冬とか、
十二支とかいふ風に分けて、各部に番号をつけるのもある。この
札は本来なら、その富興行の寺社の本堂で売るのが当然であるが、
後には市中に札屋といふものが出来て、そこで公然売出すやうに
なつた。一枚売は勿論、或は一枚を分割して売ることもある。抽
籤日は予め定まつてゐて、関係者の参観を許す。大きな箱に札数
に相当するだけの小さな木札を入れ、それを充分に振動かし、さ
うしてその箱に穿つてある穴へ錐を通して木札をつきあてる。そ
アタリ
れだから富突といふ。当の仕方は誠によく考へたもので、射倖心
をそゝり立てるやうに出来てゐる。先づ当数が百本ある場合には、
百回錐で札を突き、毎回出て来る札の番号が当りになるのですが、
金額はそれ\゛/違ふ。第百回目を突留といつて、通例これが一
番大きな金額を貰ひ、その次が第一回目の一の富、その次が五節
アヒ\/
十節といつて五回目毎十回目毎に出て来る番号、以上の外は間々
といつて金額が一番少いといふ風です。両袖といつて当番号の左
右の番号、又袖といつて両袖の左右の番号、印違といつて他の部
の同番号に若干の金を呉れるのもある。是等は総称して花といひ
ますが、本当にせよ、花にせよ、能く考へたものです。
富が流行した時代には容易に札が買へぬため、定価より高い代
カゲトミ
を出してこれを買つた例もあり、また蔭富といって、富の当籤番
号を標準として輸羸を決する方法もあつた。従つて富興行の当日、
御はなし\/と大声に呼びながら市中を駈廻つて当番号を書いた
ダイヅケ
紙片を売歩く者があつて、これを第付といふと「守貞漫稿」に見
えてゐる。
しかし天保十三年三月水野越前守忠邦が富興行一切を厳禁した
ため、その後跡を絶ちました。天保改革の中には随分無理な改革
もありますが、富興行の停止は良い方の一つでせう。
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