Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.11.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その111

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第六 御用金 (1)管理人註

御用金の定 義 御用金の目 的 大阪は幕府 の非常用金 庫

  第六 御用金  御用金といふと、幕府が富豪町人に命じて無理に金銀を差出さ せて、それを取上切にしたやうに解釈される向もあるが、それは 大間違で、幕府からは利子も付けるし、年々払戻もしてゐる。今 の政府の公債募集の強制的のものと見て宜しい。但し幕府が瓦解 したために払戻が全部終らなかつた事実があるので、取上切とい ふ誤解が出たやうであるが、本来決してさういふ訳のものではな い。取上切の分は献金又は上金といつて御用金とはいはない。  御用金の使用の目的が天保十四年以前と以後とで相違がある。 以前の御用金は御買米と異名同体で、米価の調節を目的とした。 米価釣上のために、幕府が富商豪家に命じ、一時に巨額の米を買 入れしめるのを御買米といふ。富商豪家をして直接に米を買入れ しめず、御用金として金銀を差出さしめ、それで幕府の手で米を 買入れたり、或は大名の廻米高を手控へさせ、その代りに町人か ら御用金として差出さしめた金銀を貸付けたりするのが、天保以 前の御用金の使途で、幕府自身の財政の欠陥を補ふために御用金 を出させたのは天保以後のことです。同じ御用金といふ名称でも 性質が達つてゐる。  御買米や御用金にはいつも大阪の町人が出てくる。大阪ばかり ではなく江戸・京都・堺等にも命ぜられたのですが、大阪がいつ も米高なり金高なりに群を抜いてゐるし、また大阪だけに命ぜら れた場合もある。大阪は江戸幕府にとつては実に非常用の金庫の 姿をなしてゐた。  大阪に於ける御買米は享保十六年(一七二六)を最初として四 回、御用金は宝暦十一年(一七六一)を最初として九回あるが、 文化七年の分は買米を命ぜられた若干人がそれを免ぜられて御用 金を出したのであるから、結局これを一つに見ると、御買米御用 金で都合十二回となる。その中天保十四年(一八四三)以後慶応 二年(一八六六)に至るまで、即ち御用金の性質が変化してから の分が五回である。米価調節のための御買米御用金は後章に譲り、 先づ天保十四年度以降の御用金について述べてみよう。

享保十六年は
一七三一













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