Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.11.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その112

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第六 御用金 (2)管理人註

御用金申渡 の手続 金高の指定 指定高と請 高

 天保十四年の時には御用金を申渡すために幕府から態々勘定吟 味役の羽倉外記が出張してゐる。かやうに特に幕府から役人の来 ることもあるが、来ない時には大阪町奉行の手で申渡す。役人が 来た時でも跡始末は町奉行の手でする。町奉行は両人ゐるから、 一方が専任となり、一方が立会となる。町奉行を補助するために 東西から同数の与力が出て御用掛となる。また三郷惣年寄の中か ら若干名を選んで御用掛とする。御用掛の与力惣年寄が大働きを するのである。  御用金申渡す時には第一はそれと目星をつけた町人を御用掛惣 年寄の名を以て町奉行所へ召喚する。「御用之儀有之、明何日 何時、麻上下着、何(東西)御役所へ可罷出候」といふ書 面が来る。主人は病気だといつて代人が出る。愈々一同打揃つた 所へ幕府派遣の役人東西町奉行以下が列席して御用金の申渡をす る。申渡は人数が多い時は一回に限らず、数回に分けてやる。さ うして日を違へて用金高を指定する。或場合には銘々力一杯申出 でよといつたが、それは結果が面白くないので高圧的に金高を申 渡す。それを町人の方でも願つてゐる。今の公債なら任意募集で あるが、御用金は強制募集である。どうして御用金を申渡すべき 人名を選び、また金高を決めるか、それは官辺の秘密であらうが、 町奉行所の方では前例もあることで、自然と分つてゐたらしい。 天保の御用金の時に鴻新(鴻池屋新十郎)近休(近江屋休兵衛) 両家は近来不如意の由、高は言はないから、御国恩を思ひ、何程 なりとも出精相勤むべしと仰渡され、却つて両家で迷惑をしたと いふ話がある。これで見れば取引状態なども相応に調査して居た と思はれる。鴻新と近休とが迷惑をしたといふのは、かういふ申 渡は店の不如意を町奉行所で裏書したことになり、さうなれば今 迄発行した手形を一時に取付けられて、店が潰れてしまふからで あつた。  大阪の富商豪家といふ向でも、表から見える所の壁は荒塗のまゝ にして置く家が多い。これは御用金を命ぜらるゝ場合に、昨今不 手廻で外部の壁さへ満足に塗れませぬと、指定高を値切るためで あつたと言伝へる位で、町奉行から指定せられた米高金高をその 儘承知することは決してなかつた。色々の口実を設けて減額を企 てる。掛与力や掛惣年寄からいへば、成るべく請高を多くするの が手柄であるから、指名せられた家の代人と掛の役人との間に押 問答が始まる。例へば指定高一万両とあれば、町人の方が先づ二 千両と書出す。当方では身代相応に申付けたのに、かやうな請書 を出すとは不届である、早々書直せといはれて今度は二千五百両 と改める。また叱られて二千八百両に増すといふ有様で、その間 に同様の申渡を受けた何屋が何程の指定高、何程の請高で聞届に      サグリ なつたかを捜を入れて参考とする。七回まで請書を改め、八回目 に漸く請高が聞済になつたといふ実例がある。従つて指定高と請 高との間には必ず差違がある。御用金に関する写本は随分沢山あ るが、御用金の申渡と最初の指定高とを書いたものが多く、それ では本当のことは分らぬ。請高とその後の元利金の返済の顛末を 書いてなければ首尾全からぬのであるが、それを書いたものは甚 だ少い。

 


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